鹿児島神宮
かごしまじんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鹿児島神社(大) 大隅国 桑原郡鎮座
          (旧地)石体神社

   【現社名】鹿児島神宮
   【住所】鹿児島県霧島市隼人町内2496-ロ
       北緯31度45分13秒、東経130度44分16秒
   【祭神】天津日高彦穗穗出見尊 豐玉比賣命
       (配祀)帶中比子尊 息長帶比売命 品陀和売尊 中比売命

   【例祭】8月15日 例祭
   【社格】旧官幣大社 大隅一宮
   【由緒】和銅元年(697)創建と伝
       建久年間は社領2521町余
       宝暦六年(1756)島津重豪によって再建
       明治4年国幣中社
       明治7年鹿児島神宮に改称・官幣中社
       明治28年官幣大社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は北東300mの石体宮に鎮座していた
        和銅年間に現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「国分八幡・大隅正八幡」と称していた
   【公式HP】 鹿児島神宮
   【社殿】本殿権現造
       拝殿・勅使殿・手洗所・神簸所・社務所・参拝者休憩所

   【境内図】 境内図
   【境内社】石体神社・保食神社・三之社・御門神社・雨之社・四所神社
        武内神社・隼風神社・山神神社・大多羅知女神社・稲荷神社


摂社石体神社 (しやくたいじんしや) は本宮神域の東端にある。祭神は本宮と同じで神代高千穂宮の正殿のあつたところで、本宮も初め此処にあつたのを和銅年間に移されたといわれている。
欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国隣大王(陳大王とも言う)の娘の大比留女(おおひるめ)は七歳の時に朝日の光が胸の間にさし入り、懐妊して王子を生んだ。王臣たちがこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべたところ、船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着いた。その太子を八幡と名付けたので船の着いたところを八幡崎と言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。
八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。


由緒

鹿児島神宮の創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。御祭神彦穂穂出見尊は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、580歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うたのである。 俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天皇の延喜の制には(901年)大社に列し大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(1198年)には社領二千五百余町歩の多きに至り江戸末期まで千石を有して居た。
明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に夫々列格す。
昭和10年今上陛下の行幸を仰ぎ勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。
現社殿は桃園天皇の宝暦6年(1756年)島津重年公(24代)の造営になるものである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鹿児島神宮

大隅一ノ宮 国分正八幡 鹿児島神宮
一.鎮座地 鹿児島県姶良郡隼人町内2496番地
一.御祭神 天津日高彦穗穗出見尊 豊玉比売命
  相殿 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 同皇后
一.御系統 天照御大神−天忍穂耳尊(英彦山神宮=福岡県)−瓊瓊杵尊(霧島神宮)−彦穂穂出見尊(当宮)−??葺不合尊(鵜戸神宮)−神日本磐余彦尊(神武天皇=宮崎神宮)
一.由緒概要 創祀は皇孫神武天皇の御代なりと伝えられる。農耕畜産漁猟のみちを指導し民政安定の基礎を創り給うた。俗に大隅正八幡とも称し、全国正八幡の本宮でもある。延喜の制(901)には大社に列し大隅一ノ宮として朝野の崇敬篤く建久年間(1198)には社領2500町余歩に及べり。明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社にそれぞれ列格す。昭和天皇陛下の行幸勅使皇族の御奉拝は二十余度に及ぶ。言社殿は宝暦6年(1756)島津重年公(24代)の造営なり。
一.祭典並びに特殊神事
  例大祭 旧8月15日
  七種祭 1月7日 神印拝載 追儺式
  初午祭 旧正月18日 御神馬を先頭に鈴懸馬多数が人馬一体となり踊りながら参拝する全国にも類例のない神事。
  藤祭 旧3月10日 御祭神が海の国より御帰還された日といわれる。
  御田植神事 旧5月5日 数十名の早男早乙女による古式豊かな御田植えの儀があり田ノ神葺、トド組、棒踊等の奉納がある。
 七夕祭 潮満珠、潮干珠を初め甲冑(重要文化財東京国立博物館二領、鹿児島県歴史資料センター黎明館一領出陳中)鏡、古印(元正天皇奉納)馬角、瑠璃屏風、青磁鉢、唐金花入、其他七夕の日に公開される。
一.信仰玩具 全国に有名であり情緒豊かな野趣と色彩を示している。鯛車、初鼓、化粧箱、土鈴、鳩笛、笛太鼓、羽子板、はじき猿等がある。
一.神陵 高屋山と称し当宮より北西へ約13Km空港に近い。

社頭掲示板



鹿児島神宮

大隅一の宮
国分正八幡
鹿児島神宮由緒略記
大隅一宮鹿児島神宮由緒略記
鎮座地
  鹿児島県姶良郡隼人町
御祭神
  天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦) 豊玉比売命
相殿 帯中比子尊(仲哀天皇) 息長帯比売命(神功皇后)
   品陀和気尊(応神天皇) 中比売命(同皇后)
御系統 天照大御神一伊勢神宮一天忍穂耳尊(英彦山神宮=福岡県)−瓊瓊杵尊(霧島神宮)−彦穂穂出見尊(当宮)−鵜鴎葺不合尊(鵜戸神宮)-神日本磐余彦尊(神武天皇=宮崎神宮)
由緒概要
鹿児島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。御祭神彦穂穂出見尊(別名山幸彦)は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、580歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うた御祭神である。
俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天皇の延喜の制には(901年)大社に列し大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(1198年)には社領二千五百余町歩の多きに至り江戸末期まで千石を有して居た。
明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に夫々列格す。
昭和10年今上陛下の行幸を仰ぎ勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。
現社殿は桃園天皇の宝暦6年(1756年)島津重年公(廿四代)の造営になるものである。
祭典並に特殊神事
例大祭 旧8月15日満月の十五夜の日で御神徳を仰ぐ由緒ある日である。
七種祭 1月7日神印拝戴、翁舞、追儺式あり神印は元正天皇奉納(七≡二年)の物で之を額に押戴くと年中災なく幼児は特に生育障なしといわれる。
初午祭 旧正月18日御神馬を先頭に鈴懸馬多数が人馬一体となり踊りながら参拝する、全国に類例のない神事で畜産奨励の御神徳によるものである。(近時この日に近い日曜日に行う)
藤祭 旧3月10日御祭神が「わだつみの国」より御帰還された日といわれ、折しもこの季節は藤花の咲き匂う頃なのでこの名がある。
宝物
御祭神が海の国にて受けられた潮満珠潮干珠を初め甲冑、古印、鏡、馬角、瑠璃屏風、青磁鉢、唐金花入其他がある。特に甲冑三領は文部省の重要美術品認定をうけ東京国立博物館(二領)と鹿児島市立美術館に出陳されている。
尚刀剣類(国宝を含む)は終戦時押収されて未だに不明である。
信仰玩具
御祭神の豊富な神話に因む数々の信仰玩具は全国に有名であり情緒豊かな野趣と色彩を示している。
鯛車 海幸山幸の神話に因み御祭神の釣針を呑みとった赤女魚に模したもの
化粧箱 俗に香箱とも呼ぶ、豊玉比売命が御輿入の時の御調度を玩具化したもので、大胆な花模様素朴な雅趣を表現す。
初鼓は つつづみ、俗にぽんぱちと称す、初午祭当日鈴懸馬に飾る豆太鼓を模したもの。
土鈴 境内の土を以て作った朱色の小鈴で、原始的な形と古雅な音とが風趣を表現す。各戸口に吊して魔除としている。
其他 鳩笛(八幡宮の御使)笛太鼓(御祭神の山遊びに使われたという)羽子板(神功皇后御懐妊で御出征の時ヨロイとの間に御使用になったと伝う)はじき猿(藤祭に出る厄除けを意味する)等がある。
御陵
高屋山陵と称し隣の溝辺町にあり、当宮より西北へ約13kmで台地の上に饅頭型をしている。鹿児島空港に近い。当町及び加治木町よりバスの便がある。
附近散策
隼人塚 熊襲の供養塔、隼人駅南約300m
奈気木の社 天蛭子命の漂着地、楠老樹、金筋竹あり東約1Km
国分寺跡 国府の地東約3Km
和気公居地 犬飼ノ滝北約8Km
熊襲穴 居住跡で中に百畳敷の広間あり北約5Km
隼人温泉 湯量豊富な温泉地帯で南州翁も愛でし温泉という東約1Km
御田植祭 旧5月5日数十名の早男早乙女による古色豊かな挿秩の儀があり田ノ神舞、トド組、棒踊等の奉納がある。(この日に近い日曜日に行う)
七夕祭 8月7日御神宝の潮満珠潮干珠外数十点が風入の為陳列されるので拝観の好機である。

由緒書



鹿児島神宮

鹿児島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代とも伝えらています。御祭神彦火火出見尊 (別名山幸彦)はこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、500有余歳の長寿に亘り間農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくられた。
また正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあります。平安時代醍醐天皇の延喜式には大社に列し大隅國一之宮として朝野の崇敬篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(1198年)には社領2500余町歩の多きに至り、江戸末期まで千石を有していた。
明治4年國幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に列格、勅使皇族の御参拝は20余度に及び、昭和10年と49年には昭和天皇の行幸を仰いだ。
現社殿は桃園天皇の宝暦6年(1756年)島津重年公(24代)の造営になるものである。

公式HP



鹿児島神宮

創祀は遠く神代にあり、又皇祖神武天皇の御代とも伝えられる。彦穂穂出見尊は筑紫国開拓の祖神で、この地に高千穂宮(旧社地・現在は安産の神として知られる摂社石体神社がある)を営み、580歳の長寿にして農耕畜産漁猟の道を指導し、民生安定の基礎を築かれた。正八幡等と称し、全国八幡社の本宮である。延喜の制には大社に列し、大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く、営繕の費は三州の正税を以て充てられ、建久年間には社領二千五百余町歩の多きに至り、江戸末期まで千石を有していた。明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下・官幣中社、同28年官幣大社に夫々列格された。二度に亘る昭和天皇の行幸を始め、勅使・皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。現社殿は、宝暦6年24代島津重年公の造営である。
郷土玩具として、ポンパチ・鯛車・化粧箱・鳩笛等がある。
近年の改修としては平成7年の本殿・拝殿・勅使殿の塗装の補修があげられ、拝殿天井の二百四十余枚の植物が色鮮やかに蘇えることとなった。また、2000年を迎えるにあたり昭和9年を最後に途絶えていた「浜下り」が平成12年、65年振りに復興することとなった。

鹿児島県神社庁



鹿児島神宮

鹿兒島~宮ハ今大隅國姶良郡宮内ニ在リ、初メ天津日高彦穗々出見命ヲ祀リテ、鹿兒島~社ト稱セシガ、後マタ仲哀天皇、~功皇后、應~天皇、仁コ天皇等ヲ合祀シテ、之ヲ大隅正八幡トモ稱セリ、當國ノ一宮ニシテ、延喜ノ制、大社ニ列ス、明治ノ初年、其社號ヲ改メテ鹿兒島~宮ト云ヒ、後又官幣大社ニ列ス、

古事類苑



大隅正八幡宮境内及び社家跡

大隅正八幡宮は、鹿児島県の中央部、錦江湾に流れ込む天降川を望む丘陵上に立地する。正八幡宮の東方約1.5キロメートルの天降川右岸には、中世の川湊が存在したことが知られ、その対岸には府中の地名が残り、大隅国府が所在したと推定されている。
 社伝によると和銅元年(708)の建立で、『延喜式』には、鹿児嶋神社の名で薩摩、大隅、日向の中で唯一の大社として記載されている。平安時代に、宇佐八幡宮が九州各地に別宮を作った頃に、八幡神が勧請され、それによって、「八幡正宮」と呼称されるようになったと考えられている。同時に、宇佐八幡宮の弥勒寺に倣って、弥勒院が現在の社殿から東約300メートルの地点に建立された。また、院政期には、諸国の神祇が一宮、惣社を中心として整えられたが、大隅国では正八幡宮が一宮として保護された。
 鎌倉時代には、源頼朝の庇護等により、勢力を拡大する。建久8年(1197)の『建久図田帳』によると、大隅国の約3000町の田のうち、正八幡宮領は約1296町に及んでいる。その後、元軍調伏の祈祷を行ったことや、『八幡愚童訓』に見える八幡神の起源は大隅正八幡宮であると主張することなどを通じて、多くの所領の寄進を受け、それを基に、正八幡宮の前面に社家や御家人の居館、寺院などからなる「宮内」と呼ばれる町が形成され、整備された。宮内には、別当寺も含め多くの神官・神人・僧侶が居住し、「四社家」「十家」又は「一家」「衆徒十五坊」「殿守十二家」「四十七家」「隼人十八家」など百十家が知られている。中でも世襲の桑幡・留守・沢・最勝寺の四社家は、それらを統括する立場にあった。

文化遺産オンライン



鹿児島神宮

鹿児島神宮 かごしまじんぐう 鹿児島県姶良郡隼人町。旧官幣大社(現、別表神社)。社地は日向山にあって、前面に鹿児島湾が開けている。旧国分郷宮内にあり国分八幡宮ともいう。又五所別宮・正八幡宮とも、正宮・大隅正八幡宮とも称した。大隅国一の宮である。『中右記』に寛治5年(1091)12月、大隅国正八幡宮宝殿焼亡のことが見える。正八幡宮の名は平安時代に早くも記録され、宗廟に列していた。しかし『延喜式神名帳』は鹿児島神社とし、名神大社であった。鹿児島神社と大隅正八幡宮の変遷について歴史的な解明が必要であるが、諸説は複雑である。日向山は神代史の日向三代の宮居である高千穂宮の跡で、神武天皇が大和国に束遷するに先立って、祖父に当る天津日高彦穗々出見尊とその妃豊玉比売命を祀ったというのが社伝である。そして八幡宮ではあるが宇佐神宮とは祭神を異にするという。
天承2年(1132)4月、本殿の東北に二体の石神が出現し、八幡の二字が読取れ、朝野は挙げてその奇瑞を尊んだことが請書に見える。正統の八幡宮として宇佐より古く存在したことを主張する社家の働きがあったのであろう。
国府の守護神として国司の崇敬社で、鎌倉幕府も源頼朝以来尊崇を継ぎ、地頭職・藩主であった島津氏は、造営・遷宮を重ねた。神宮寺は弥勒院といい、宇佐神宮寺と同じ名であった。明治7年(1874)神宮号となり、次いで官幣大社に列した。
社殿は宝暦6年(1756)の建築で、入母屋造平入の本殿に、切妻造妻入の拝殿が続き、桧皮葺の豪壮な建物である。例祭は8月15日。隼人舞がある。旧5月5日のお田植祭は、田の神舞、トド組の棒踊など古式の神事の後、早乙女も加わって田植えをする。この祭の後地方一帯では田植を姶める。

神社辞典



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