元社地は、ここから東北方約4Kmの海に面した字濟(寸とも)の山上、ここから「安政2年(1855)に峠越に社地を設定して遷。ところが25年経過した明治13年になつて、元の濟の旧社地に遷した。神託によるものであつたという。が、昭和3年になつてまたもや現社地に遷した。その際は、里宮建立という名目だったため、旧地にも神社跡が残る。 『古事記』の中の「因幡の白菟」に登場するウサギは、比奈麻冶比売命を氏神とした民族だったのではないかとの説がある。 |
比奈麻治比売神社 「『日本後紀』巻8の延暦18年(799)5月の条に、勅命によって渤海国に使節として派遣された内蔵宿祢賀茂麻呂(クラノスクネ・カモマロ)が帰途に難破しかかった時、闇夜に見えた不思議な明かりをたよりにして隠岐西ノ島に上陸することができた。そこで、不思議な光を尋ねてみると、それはここに鎮座する比奈麻治比売神社の神さまが、進路を失った船を導くためのご神火であった。この賀茂麻呂の奏上によって、比奈麻治比売神社は隠岐国最初の官社となった」 『隠岐島の伝説』野津龍、1977 |
比奈麻治比売神社 比奈麻治比売命神社(旧社格村社) ・通称 済さん ・交通 宇賀港から徒歩十分・倉ノ谷港から徒歩15分 ・鎮座地 宇賀 ・主祭神 比奈麻治比売命 ・祭日 例大祭7月28日・歳旦祭1月1日 ・本殿 隠岐造木造銅板葺 四坪 ・拝殿 木造瓦葺 十六坪 ・付属施設 参篭所 。境内地 八七六坪 ・由緒・沿革創立不詳。延暦18年(799)渤海使内蔵宿祢賀茂麻呂等が帰国の途申、神助けを受けた事によって官社に預かる(日本後記)とあり。次いで承和5年(838)従五位下(続日本後記)。貞観13年(871)正五位下。元慶2年(878)正五位上(三代実録)と神階も上昇し、霊験の著しい事が中央に知られている。延書式では知夫郡七座の内の小社。国内神名帳では従一位。右のごとく古代においては地方における霊験神として崇敬されたが、時代が下がるに従って信仰は薄れた。近世では鎮座地宇賀・倉ノ谷両区の氏神として崇敬されている。旧社地は宇賀を隔てる事、約4Kmの所にある為、参拝の不便より安政2年(1855)に峠越という処に移転したが、氏子の中に種々災いが起こったという理由により、旧社地に返した。昭和3年(1928)に至って現地に再移転し現在に至っている。なお、旧社地には神社跡の石碑が建てられている。 西ノ島町史 |
比奈麻治比売命神社(済神社) 鎮座地 西ノ島町大字宇賀888 祭神 比奈麻治比売命 合祀 星神島の神 御崎社 北野社 境内社 熊野社 創立年は不明である。西ノ島町の北東端の『済』という地に鎮座していたことから「済の宮」とか「済大明神』とも呼ばれていた。安政2年(1855)に、一度この尾和の地に移されたが御神託により25年後の明治13年に元の済に戻され、昭和3年(1928)に再びこの地に移された。現在、済の宮跡では玉垣に囲われた本殿跡の下に盤座が見える。 神名帳考証には『火焼権現トモイフ』とある。 『比奈麻治比売命神社がはじめて六国史に見えるのは、延暦(799)である。遣渤海使内蔵宿祢賀茂麻呂が任を終え帰国せんとして、海中夜暗く、その進路に迷った時、遠有ニ火光一りて無事島浜に至ったという霊験高い神であり、その上奏によって幣例に預かることを許された。』黒木村史 隠岐国初の官社になり、その後も次のような階位を授かっている。 承和5年(838)隠岐国無位比奈麻治比売神に従五位下(続日本後記) 貞観13年(871)隠岐国正五位下比奈麻治比売神を正五位下(三代実録) 元慶2年(878)隠岐国正五位下比奈麻治比売神を正五位上(三代実録) 里人もない辺境の地の神社が、このような昇階に預かることは珍しいことで、これは、賀茂麻呂の報告にある『頼之得全者不可勝数』(それを頼って無事に危難を免れた者は数え上げることができないほど)のごとくその後も比売の御神助が都まで聞こえたからであろう。 式内社に比定された由緒の古い神社で、隠岐国内神名帳には従一位とある。また、慶長8年(1613)の検地帳の御供田の記録や、元禄12年(1699)の佐渡守(江戸家老小笠原長重)の銘のある御幣串が残されていること、出雲大社の十九社、櫛田神社の二十一社の名記から、近世に於いても内外に広く信仰の対象になっていたと推察される。 比奈麻治比売命神社 社頭掲示板 |