半島能登の海村には、漂着神を祀る神社数多い。 式内社加志波良比古神社の祭神も、所謂客人信仰に基づく神といえる。 加志波良比古大神が御降臨の際海上より渡航になり 始めて発見された島を見附島と称し 陸に着かれたところを着崎といい それより 神楽畷を経て神行 今の地に御鎮座という。見附島は、鵜飼駅の東の沖に浮かぶ島。 |
加志波良比古神社 加志波良比古神社由緒 御祭神 加志波良比古大神 伊加志穂比古神 本社は延喜式内の古社で加志波良比古大神が御降臨の際海上より渡航になり 始めて発見された島を見附島と称し 陸に着かれたところを着崎といい それより 神楽畷を経て神行 今の地に御鎮座という。 古くは 近郷七十ヶ村の総杜にして 摂末社二十一社 神職十二人 社領一千石の大社で 治承年中には 宮内権少輔 藤原保重が勃使として参向したとも伝えられる。また室町時代には 社人社憎も多く 別当に神宮寺があったともいわれていたが 天正の兵乱で神社は破懐され 次いで宝永3年の火事で旧記棟札等一切を焼失し昔日の面影がなくなる。 十七世紀の末期 広国村の茂右衛門が大願主となってお仮屋を建て 加志波良比古神社の再興をはかる。 明治5年5月本殿造営同年9月郷社に列せられる。平成3年9月28日の台風により本殿 拝殿 烏居等が壊滅的被害を受けたが氏子有志等の浄財で復興再建 平成5年5月23日慶賀祭を行う。 尚本社の例祭は 4月23日であり、珠洲市式内社三座の一社である。 平成5年5月吉日建立 社頭石碑 |
加志波良比古神社 人皇十代崇神天皇御宇御創草ニテ當地へ御降臨ノ時海上ヨリ始テ御見附被爲在候嶋ヲ見附ノ島ト申候。同郡鵜飼村ノ沖二小社ヲ建則見附嶋神社ト称へ今以御座候。夫レヨリ陸へ御着被爲在候地ヲ着崎ト申候。橿原村旧廣國村字垣内田旧字丸山ト申処へ御登リノ時御行宮二営シ候所ヲ御仮殿ト申字地今以御座候。夫レヨリ一町許上二神樂畷ト申字地御座候。夫レヨリ南ノ方七丁許リ御幸被爲在橿原村垣内田旧廣國丸山ト申処二御鎮座御座候 神社明細帳 |
加志波良比古神社 延喜式内社で、崇神天皇の御宇大神当地に降臨の時の創建と伝える。海上より渡航せられて初めて発見された島を見附島と称し、上陸された地が着崎で、現在もある。往古は末社21社神職12人、社料一千石を下腸され、近郷70ヵ村の総社である。明治5年郷社に列格、大正11年神饌幣帛料供進神社に指定された。 石川県神社庁 |