須須神社(金分宮)
すずじんじゃ(かなわけのみや) 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須須神社 能登国 珠洲郡鎮座
          (高座宮)須須神社(高座宮)
          (奥宮)須須神社(奥宮)

   【現社名】須須神社(金分宮)
   【住所】石川県珠洲市三崎町寺家ツ-102
       北緯37度29分44秒、東経137度20分42秒
   【祭神】木花咲耶姫命
   【例祭】3月 15日 春季祭 9月 14日 秋季祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇御宇御草創
       用明天皇元正天皇両帝より官幣使下向
       養老元年(717)遷座説が社伝にある
       天平勝宝年間(749−56)現在の地に遷して二社に分社
       貞観15年(873)8月4日従五位上
       天正14年(1586)金分高座両宮に社領として五町歩
       明治4年郷社
       明治8年廃佛毀釈によつて別当高勝寺は廃寺
       明治17年火災でほとんどの堂塔が焼失
       同39年12月29日神餓幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建
        天平勝宝年間に現在の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「金分宮」と称していた
   【社殿】本殿流造りトタン葺
       拝殿

   【境内社】

高座宮と金分宮の2社に分かれて鎮座している。
第10代崇神天皇の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した。
山伏山山頂には奥宮が鎮座している。
金分宮はもとは現在地より約3Km程奥の小字「きんぶん」という所にあり、それが小字「宮野」という所に遷り、更に現在地に遷座したという伝承がある。


由緒

須須神社縁起
当社は高座宮(たかくらぐう)・金分宮(きんぶんぐう)の両社に御夫婦の大神を祀り、須須神社と称し「三崎権現」「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな御社である。
第10代崇神天皇(約2000年前)の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座しました。
国史「三代実録」によると、貞観(じょうがん)15年(873)8月4日従五位上の神階を賜わった、延喜式内の古社で、社伝によれば用明、元正両天皇より勅使の献幣があり足利時代は大宮司猿女(さるめ)氏以下、社人社僧多く、別当寺に十二坊、社領三千石が献納されており、天正12年(1584)加賀藩主前田利家公が巡国のみぎり御祈願所と定め、社領として神田五町歩(石高七十五石)を寄進し、武運長久の祈願をされております。
古代より縁むすびの神として、世に知られており、この「むすび」とは、ただ単に男女の仲を結ぶだけではなく生成化育、修理固成という日本民族の根本精神である神業(かみわざ)を、みずから妹背(ふうふ)の契を結び子孫繁栄の道を示し教えられた尊い祖神(おやがみ)さまであります。
また祭礼は珠洲一郡の総社として「お郡祭(こうりさい)」「御出御幸(おいでごこう)」と称し郡内巡行の祭儀が半月がかりで近年まで斎行されていました。
奥宮鎮座地の山伏山(標高172m)は山容優美にして海上からの景観は、鈴をさかさにしたような典型的な神奈備の霊山で、原始時代から北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期(約1200年前)には海上警戒の設備を置き、烽火(のろし)(狼煙(のろし))が一たび、あがると郡家で受継ぎ国府、そして京の都へ伝達されたと云われている。
元禄10年(1697)加賀藩へ出した大宮司書状によるとすでに奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、一夜に油一升、燈心布三尺をもちい、夜ごと大神に献燈し、北海暗夜、渡海船を守護し、この燈明堂が明治初年現在の禄剛崎灯台に進展したものです。
本社社叢(もり)は千古の昔から神域として保護され、北部照葉樹林の、うっそうたる原生林をなし境内約一万坪には、スダジイをはじめ、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ等が混じり、林床にはミヤマシキミの純群落が見られ約250種の植物があり、国の特別史跡名勝天然記念物に指定され、貴重な存在とされております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



須須神社

須須神社 (珠洲市三崎町寺家鎮座)
縁起
御祭神 高座宮
金分宮 天津日高彦穂瓊瓊杵尊
美穗須須美命
木花咲耶姫命 (あまつひだかほこににぎのみこと)
(みほすずみのみこと)
(このはなさくやひめのみこと)
 当社は高座宮・金分宮の両社にご夫婦の大神を祀り、須須神社と称し「三崎権現」・「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな御社であります。
 第10代崇神天皇(約2000年前)の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した国史現在社・延喜式内社であります。
 古代より縁結びの神として、世に知られており、この「むすび」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく生成化育、修理固成という日本民族の根本精神である神業を、みずから妹背(ふうふ)の契を結び子孫繁栄の道を示し教えられた尊い祖神(おやがみ)様であります。  かように、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・縁結び・安産・育児・病気平癒・槌児祈願・鬼門除け等の大御稜威(おおみいつ)あらたかな日本海の守護神とし、古くから三崎大権現として深く信仰されています。
 宝物
木造男神像五躯(国重要文化財)
 鎌倉時代のもので、素朴でいずれも表情を異にし写実美をおびた衣冠束帯の座像です。
社叢(国の特別天然記念物)
蝉折れの笛と守刀(義経の笛を弁慶の守刀)
 文治三年(一一八七年)源義経が兄頼朝に追われ奥州平泉へ下向の際、須須岬沖合で時化に会い無事難をのがれた御礼として、平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛と弁慶が寄進した「左」銘入りの守刀です。
義経・弁慶の献詠
 「都より波の夜昼うかれきて道遠くして憂目みる哉」義経返歌「憂目をば藻塩と共にかき流し悦びとなる鈴の御岬は」 前田利家公献詠
 「ほうくわん殿この笛をこのすずのやしろにささげ給へとなんありしよのそのあらましをきくからに袖さへぬれてねにそなかるる」
法華経八巻
 文明12年(1480年)蓮如上人の奥方真如院(幼名蓮能)が16歳の時、父の七回忌を祈念し納経されたものです。
 他、翁面(古珠洲焼)、隠切支丹崇拝像、古文書(県指定有形文化財)七〇余通があります。

社頭掲示板



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