社殿の後背は欝蒼たる緑の前方後円墳の石撞別命の御墓であり、その東方には石城別命の御墓が続いている。 古代に羽咋郡を支配していた羽咋氏の氏神として創祀されたものであろう。 |
由緒 羽咋神社の由緒 磐衝別命、父君垂仁天皇の詔のまにまに羽咋に居を構え、農耕指導を中心に人民を愛撫し給い、その御子磐城別王命羽咋の国造となり、父の志を継ぎ善政をしき給えば、死後磐衝別命の母君弟苅羽田辨命と併せ、社殿を造り産土大神と斉奉り羽咋神社と称す。 延喜式に登史され、明治14年県社に列し、大正6年9月27日御祭神の両墓所宮内省より御治定、翌7年5月20日聖旨により当社之金4100円也る御下賜、同年10月23日東久邇宮殿下親しく幣帛を奠め王串を捧げられる。 七塚、例祭日の唐戸山神事大相撲等祭神に関する伝説多し。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
羽咋神社 羽咋神社は任喜式に登史せられ、元県社です。 上古勅命に衣り謁の国(能登の国)の鎮撫使として羽咋の国に御下降なされた第11代垂仁天皇の皇子磐衝別命、並びにその御子磐城別王(羽咋の国造)等を、祀っています。 相撲道場日本最古とも云う歴史と古式を伝えて毎年9月25日(命の薨去)に執行せられる唐戸山神事相撲の有名を約二千年の久しきに亘り連綿永続し、中古の郷土庶民より羽咋の神と追称せられ今日に及んでいる神社であります。 大正6年9月27日御祭神の両墓所(磐衝別命、磐衝別命)が御治定に衣り宮内省より当社に祭祀料等の御下賜あり境内の整備がなされて現況となる。 社頭掲示板 |
羽咋神社 石川県羽咋市川原町鎮座 御祭神 磐衝別命 磐城別王命 弟苅羽田刀辮命 由緒 磐衝別命は垂仁天皇の皇子で勅を奉じて羽咋の地に下向された。往古この地は高志の北島とよばれ、未だ拓けず、住民は飢餓と賊に苦しみ、さらに滝崎の森には怪鳥が住み害をなしたという。 命は勅を奉じて賊を平らげ、怪鳥を討ち、住民を教化し農事を拓き奨められた。これにより民の生活は安らかなものと成ったという。後に命はこの地で薨ぜられた。住民は御墓を築き(この際の土を取った跡が唐戸山であり、毎年神事相撲が行われる。)命の恩徳を無窮に伝えようと神霊を祭犯したのを当社の起源とする。また、磐城別王命は磐衝別命の御子で羽咋国造に定められ、やがてこの地で薨ぜられた。よって御墓を築き奉葬し、祭祀を怠らず後に伝えた。(両御墓は、大正6年に磐衝別命・磐城別王命の御墓と御治定になっている。) 例祭(唐戸山神事相撲) 毎年9月25日に斎行される。磐衝別命は相撲を好み人々を召し集へて相撲せしめ武勇の気を奨められた。命の薨ぜられてよりは、薨去の日8月25日(旧暦)に祭礼を行い、唐戸山にて相撲を行い、神霊を慰め奉ることとした。以来、今日まで連綿と受け継がれている。 この神事相撲では、邑知潟を中心として能登を下山、加賀・越中を上山と分ける。窪地の中央に土俵を設け、土俵には四本柱はなく勝負は『水なし、塩なし、待ったなし』で二番行われる。関(大関)をとった力士はウマに担がれ神社へと駆け込み、両山力士・親方参列のもとに幣帛授与祭が斎行され、 御大詔(大関証書・相撲由来書・目録)、大幣帛、高張提灯(本念寺より)が授けられる。 末社 八幡神社 御祭神 応神天皇 」 羽咋市川原町鎮座・羽咋駅前、長者川の西岸に在る。もとは東岸に鎮座したが、昭和34年駅前拡張により現在地に遷座となった。 少名彦名神社 御祭神 少名彦名命 羽咋市川原町鎮座古墳(犬塚)上に鎮座する。境内の井戸からは羽咋随一の良水(薬師の水)が湧くという。 稲荷神社 御祭神 倉稲魂神 羽咋市旭町鎮座 明治の中ごろに伏見稲荷より御分霊を勧請し奉祀したのが始まりという。 稲荷社 御祭神 宇賀御魂神 羽咋市本町鎮座 もと、磐城別王命墓の頂上に鎮座し、稲荷氏の護神として奉斎されていた。御墓御治定に伴い現在地に遷座となった。 魚取神社 御祭神 事代主命 羽咋市島出町鎮座 正徳2年に篠田弥平次なる者が海中より事代主命の木像、を得、社殿を建立し奉斎したのが始まりという。鎮座地は往古、磐衝別命が怪鳥を射落した地とも伝える。 古登比羅神社 御祭神 大物主命、崇徳天皇 羽咋市大川町鎮座 寛文年間に讃岐国の金刀比羅宮より御分霊を勘定し、奉斎したものという。 羽咋七塚 古くから羽咋には当社御祭神に関りの深い七の古墳がある。 大塚 磐衝別命の御墓。御陵山とも称す。 大谷塚 磐城別王命の御墓。王子塚、観音塚とも称される。 姫塚 磐衝別命の妃、三足比当スの御墓。 宝塚 稲荷山、北方山とも。磐衝別命の宝を埋蔵した。 痛子塚 磐衝別命の御子の御墓。 剣塚 磐衝別命の居館の跡。 犬塚 水犬塚・薬師塚とも。磐衝別命・の猟犬の墓。命が怪鳥を射落したとき、猟犬が怪鳥と戦い勝ち、鳥の羽を喰え命の前に来て死んだ。この「羽を喰う」が羽咋の地名の起源という。 由緒書 |
羽咋神社 往古この地は高志の北島とよばれて山野はひらけず、住民は飢餓と疫病に苦しむことがひどかつた。さらに垂仁天皇の御代、かやうな災厄の上に、暴虐なる盗賊がはびこり、瀧崎の森には怪鳥がすんで危害を加へ、住民はまさに絶えようとする有様だつた。よつて朝廷は鎭撫のため石撞別命を下向させられた。命は勅を奉じて賊を平げ怪鳥をうち(羽咋の地名はここに基づくといふ)、教化をしいて農事をすすめられたので、住民は安んじて生活できるやうになつた。かくて数十年、命はこの地で麗ぜられたので、住民は御墓を築いて奉葬した。その御墓の土をとつた跡地を唐戸山と称し、今も巨大なすり鉢状の凹地をなし、毎歳ここで神事相撲を行ふのだと説かれてゐる。また命の恩徳を無窮に傳へようと神霊を祀つたのが羽咋神社の起源だといはれる。かつまた命の御子である石城別命は羽咋國造に定められ(成務天皇あるいは雄略天皇の御代といふ)、やがてこの地でなくなられた。よつて御墓を築き、祭祀を怠らず後代に及んだと傳承する 式内社調査報告 |