気多大社
けたたいしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】気多神社(名神大) 能登国 羽咋郡鎮座
   【延喜式神名帳】能登生国玉比古神社 能登国 能登郡鎮座

   【現社名】気多大社
   【住所】石川県羽咋市寺家町ク1
       北緯36度55分33秒、東経136度46分3秒
   【祭神】大己貴命
       『神祇正宗』天活玉命

   【例祭】4月3日 例祭
   【社格】旧国幣大社 能登国一宮
   【由緒】崇神天皇御宇勧請
       天平20(748)越中守大伴家持参拝
       神護景雲2年(768)18月封戸二十戸
       神護景雲4年(770)8月中臣葛野連飯麻呂幣帛奉納
       延暦3年(784)3月正三位(続日本紀)
       大同元年(806)封三十戸(新抄格勅符抄)
       嘉承3年(850)6月従二位(文徳実録)、
       仁寿3年(853)8月封戸十姻・位田二町を増加(文徳実録)
       貞観元年(859)正月従一位(三代実録)
       貞観元年(859)7月神祇大佑大中臣朝臣豊雄奉幣使(三代実録)
       寛仁元年(1017)10月幣帛神宝等を奉(左経記)
       延久4年(1072)3月19日能登守藤原通宗社頭で歌合
       建保5年(1217)鎌倉将軍実朝公田寄進
       明応8年(1499)畠山義元寄進
       永禄4年(1561)同義綱社殿造営
       永禄12年(1569)摂社若宮社を再建
       天正10年前田利家三百俵を寄進
       慶長5年(1600)二代利長は二百石の地を安堵
       明暦3年(1657)三代利常百五十石を加増
       天明7年(1787)治脩本殿・白山社・随身門・宝藏等を造営
       明治4年5月国幣中社
       大正4年11月国幣大社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来この地に鎮座
        一説に、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮)し、崇神天皇の御代に当地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「気多大神宮」「気多大明神神」と称していた
   【公式HP】 気多大社
   【社殿】本殿流造檜皮葺(国指定重要文化財)
       拝殿・神門・神庫・社務所

   【境内社】白山神社・若宮神社・奥宮社・揚田神社・太玉神社
        菅原神社・奥津島神社・印鑰神社・大多毘神社

   【境内図】 境内図

気多大社は能登半島の基部羽咋市寺家町の鬱蒼たる森を背景とし、海に向かい南面 して鎮座する。古来、気多神社とよばれるほか気多大神宮、気多大明神とも尊称された。祭神は大国主神(大己貴命)で、出雲国から来臨して能登半島を平定開発し、やがて鎮祭されたといわれている。また、崇神天皇時代の建立とも伝え、神代の鎮座ともいわれている。


由緒

氣多大社の由緒
当大社は、氣多大神宮とも称え奉り、能登國一ノ宮として世に知られる北陸道総鎮護の御社であります。
御祭神は、大己貴命で世に大國さまと申します。
奈良、平安時代より、能登の国一の宮国幣大社(こくへいたいしゃ)として、世に知られ、創建二千年の歴史を今に伝えています。
若宮神社の御祭神はえびすさまと申します。
御社殿背後の森は、「いらずの森」と称し千古の歴史を伝える北陸随一の原始林であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



気多大社

当大社の御祭神は、大国主神(又の御名を大巳貴命)と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。
創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝られ、延喜の制では、名神大社に列しています。本殿背後約一万坪の社叢林(入らずの森)中央の奥宮には素盞鳴命、奇稲田姫命が祀られています。
伝統的な特殊神事としては、新年の門出式(1月11日未明)をはじめ、平国祭(3月18日〜23日)、蛇の目神事(四月3日)、鵜祭(12月16日未明)等が有名です。

社頭掲示板



気多大社

気多大社が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』である。天平20年(748)、越中守大伴家持が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、「之乎路から直超え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船楫もがも」と詠んだ。本社がいかんに重んじられ、のちに能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、神護景雲2年(768)に封戸二十戸と田二町を寄せられ、しばしば奉幣を受けた。斉衡2年(855)には神宮寺に常住僧が置かれ、神階も累進して貞観元年(859)には正二位勲一等から従一位にのぼっている。このような国家の厚遇は、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではあるまい。能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威が中央国家に及んでいたのである。近年、南方八800mの地に発見された寺家遺跡は縄文前期から中世にわたり、大規模な祭祀関係の出土品や遺構類は気多大社とのかかわりあいをしのばせる有力な資料となっている。
延喜の制では名神大社に列して祈年の国幣にあずかった。「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社がある。日本海沿岸にひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、古代における気多大社の神威がしのばれる。
建保5年(1217)将軍源実朝が公田として十一町余を寄進したが、古代の封戸などによる神領であったろう。中世末期には、980俵と56貫余の社領を有していた。能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られる。今も遺る摂社若宮神社(国指定重要文化財)は畠山氏の再建で、石川県の中世建造物として重視される。
近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進したほか、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をした。本殿、拝殿、神門、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)がそれである。加賀藩の保護した社叢(国指定天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている。明治4年(1871)に国幣中社、大正4年(1971)には国幣大社となり、現在も北陸道屈指の大社として知られる。昭和56年には昭和天皇の行幸があった。 神社の生命は祭祀にある。元和5年(1619)の由来書には、七十四度の神秘な祭祀を執行するとある。神仏習合時代には修正会、仏生講会、放生会、法華八講会なども行った。明治の神仏分離と新しい神社制度によって祭祀行事は大きく改革されたが、なおよく古儀を伝えた特殊神事が少なくない。そのなかで、最も規模が大きく、明るく開放的な平国祭と、類例のない神秘的な深夜の鵜祭りとをとりあげてみたい。
3月18日〜23日
■石川県七尾市の所口にある気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、現在は3月18日から23日まで、羽咋・鹿島郡内の二市五町を回る。神輿の長い行列が早春の能登路を巡行し、一般には「おいで祭り」と呼ばれる。沿道には人々が集まり、神幸を迎える。「寒さも気多のおいでまで」といわれ、神が民衆の中においでになり一体となる能登の春祭りとして親しまれている。
■注目したいのは、往路の21日、鹿西町金丸の宿那彦神像石神社に一泊し、翌日同社の少彦名命が神輿に同座して七尾の気多本宮に赴き、一泊して祭典を営んでから帰途につくことである。気多神社の大国主神が少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれている。
■帰社した神輿は4月3日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝える。例大祭には境内で蛇の目の的を神職が弓で射、槍で突き、太刀で刺す行事があり、祭神が邑知潟にすむ毒蛇を退治した状況を模したものだと説かれているが、古記録にいれば、流鏑馬神事が歩射となったものであることが知られる。昭和63年からはその流鏑馬神事が450年ぶりに復活され、古式に従って毎年執り行われている。平国祭は気多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属する。まことに大規模な渡御祭として全国的にも注目される。
■12月16日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽の鵜を、同地の鵜捕部三人が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして14日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様と呼ばれ、道中では民衆が「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。
■16日午前3時すぎ神社で祭典があり、祝詞奉上、撤饌がすむと、本殿内の灯火だけを残して消灯し、四辺は暗黒となる。鵜捕部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答がかわされる。やがて、「鵜籠を静かにおろし、籠をとりすて、鵜をその所に放てと宣り給う」とおごそかにいわれると、鵜捕部は鵜籠の鵜を本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまると取り押え、海浜に運ばれて放たれる。鵜は闇空に飛びたち、行くえも知れず消え失せるのである。
■鵜祭りの由来は明らかでない。神社の所伝によれば、祭神の大国主神が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれている。神秘的な行事ではあるが、気多大社の年中祭祀上から大観すると、新嘗祭中の神事だったのである。平国祭から例大祭に連なる行事が、祈年祭の性格を有するのと対比して考えるべきであろう。
■なお当夜、鵜の神前への進み具合によって年の吉凶を占う習俗が古くからあった。加賀藩祖の前田利家は、鵜祭りの行事を重んじ、天正13年(1585五)に鵜捕部へ鵜田二反を寄進しているほどであるが、鵜祭りの鵜が例年にまさって神前によく進んだことを聞き、「国家之吉事、不可過之候」と喜んだ書状が大社にある。
この神事を脚色した能の「鵜祭」があり、もっぱら金春流で行われたことは注目すべきことである。

公式HP



気多大社

古縁起によれば、人王八代孝元天皇の御宇、北國越中の北島の魔王が鳥に化して國土の人民を害し、鹿島路湖水(現在の邑知潟をさす)には大蛇が出現して人々を苦しめた。この時、大己貴尊が出雲國より三百余神末社巻属を引き具して來臨、化鳥と大蛇とを退治してこの南陽の浦に垂跡して天下國家君民守護の神と仰がれたとある。
古い傳承では、七尾市所口にある氣多本宮(能登生國玉比古神社と総す)が氣多神社の本宮だと今もいはれ、同社の縁起によれば、上世の昔、大己貴命が出雲國より因幡國の菊多碕に至り、それより當國に渡つて地方を平定し、やがて所口に鎭祭され、孝元天皇の時に宮社を建てられた。氣多といふのは氣多崎から影向されたによつての名で、それより後、崇神天皇の御宇に鹿島路湖水の毒蛇を退治して竹津浦に垂跡した、これが一宮である。よつて初めに鎭祭された所口の神社をもつて本宮と称するのであつて、一宮は本宮の鎭祭より百有余年後の垂跡だと述べてゐるのである。

式内社調査報告



門出式・平国祭

門出式は古くは鳥居神事・鳥居参と称した。1月11日午前3時、宮司以下蓑を着けて濱の大鳥居の南側に立つ。禰宜が忌竹にて地上に大きな鳥居をえがく。宮司はその鳥居の額束の部分にヒモロギ(笹竹)を立て、微音にて祝詞を奏上。宮司以下そろつて東・南・西・北に向かつて拝礼後、随身門に到つて門神に拝礼、次に印鎗・大多毘・大穴持の三社を巡拝してから境内の摂末社を巡つて拝殿前にて拝礼をなしてから齋館に入る。その間、約一時間、すべて無言のままである。由来に関する伝承はないが、神職は新年より門出式を終えるまで遠出を禁ずる慣行が今も守られている。
平国祭は七尾(断口)御幸・2月御神幸等とよばれた。3月18日から同23日まで5泊6日にわたる大規模な神幸祭で、神輿を中心として神職は騎馬にて供奉し、遠く七尾市の気多本宮へ赴いて還幸する。渡御の地域は旧の羽咋・鹿島二郡内の二市五町にわたる。往路の21日には鹿西町金丸の宿那彦神像石神社の祭神少名彦神が神輿に同座。大己貴命・少彦名命の二神がともに能登国を平定した往昔を偲ぶ行事だといわれるが、春祭にあたつて気多神社の本つ宮へ渡御して神祭をなす古儀を伝えた祭儀として注目される。23日に帰社した神輿をそのまま拝殿内に安置し、4月3日の例祭まで平国祭は連続するといわれてきた。



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