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本殿内に玉殿が五基あり、西第一殿に表筒男命・中筒男命・底筒男命(住吉大神)の荒魂を主神として祀り、西第二殿に応神天皇、中第三殿に武内宿禰命、東第四殿に神功皇后、東第五殿に建御名方命を配祀する。 神功皇后凱旋のみぎり、「吾荒魂を穴門の山田邑に祀れ」との神託を仰ぎ、神恩奉謝の爲めに、この地に祠を立てて住吉三神の荒魂を祀り、穴門直の租、践立を神主として奉仕せしめられた。摂津国の住吉神社鎮座の前年とされる。 |
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由緒 住吉大神は神代の昔、伊弉諾尊が、筑紫の日向の小戸の橘のAWAGI原で禊除をされ、黄泉国の穢れをお清めになった時、出現された神であります。仲哀天皇の九年、神功皇后さまが新羅国を征討されるため、自ら神主となって斎宮に入り、天神地祇に戦勝をご祈願になった時、再びあらわれて、「吾和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん」とお教えになりました。皇后さまはその神託のまにまに進軍し、ご神助のもと、 刃に血ぬらさずして新羅をご征討、続いて高麗、百済の両国をも降伏させて凱旋されました。凱旋ののち、「吾荒魂を穴戸の山田邑(現在地)に祀れ」との御神誨を仰ぎ、神恩奉謝のため、この地に祠を立てて、住吉三神の荒魂をお祀りになり、穴戸直の祖践立を神主として奉仕させられました。これが住吉神社の起こりであります。 下って醍醐天皇の延喜の御代、式内社として名神大社に列し、続いて長門国一の宮と仰がれ明治の御代に及び、同4年に国幣中社に列格、同44年官幣中社にご昇格になりました。戦後は制度が改まり、神社本庁所属の別表神社として、そのご神威はいよいよ高く、ご神徳はますます赫々で、お祓の神、産業興降、水陸交通の神、開運長寿の神、また文道風月の神として霊験いちじるしく、上下一般の広く深い崇敬をおうけになっております。 海遠く月をも西にあふぎつつ 筒の男の神の昔をぞ思ふ (藤原季種) うき雲のおひ風まちて天の原 神代に照らせ日のひかりみむ (今川貞世) やはらげる光もらすなしらなみの 檍原にいでし月影 ( 同 ) 以上の信仰は神代より上代中世を通じて、現在に至るまで、絶えることなく、強く生き続けております。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
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住吉神社 神功皇后の事跡に始まる住吉神社は、長門国一の宮・式内社としての格式を誇り、歴史においても、また現存する文化遺産の水準の高さにおいても、まさに下関第一の宮である。 国宝の優美なる本殿をはじめとする優れた文化財を、私たちの祖先は、敬虔なる祈りと深い愛情によって今日まで、立派に守り継いできた。私たちもまた、この尊さを広く訴え、民族の遺産として次代に引き継がなければならない。 私たちは今、その責任において、住吉神社の総べてを紹介しようとするものである。 下関郷土の文化財を守る会会長中島恒雄 本書は、当社の総べてを、豊富な写真を証左として、文化と信仰の上から紹介し、弘く江湖の渇仰に応えたものである。 今、続刊の要望多く、御協力の各位と議り、内容不変の故をもって、上梓の理念を承け、文意は初版のまゝとし、一部字旬等の訂正を行い、ここに再版をみるに至つた。 右、諒とされたく、一文するものである。 昭和59年秋・再版に際して 住吉神社宮司 堀熊彌彦 住吉神社 本殿造換のころ 古川薫(作家) 守護大名大内氏と長門一宮住吉神社との深い関わりは、正平12年(1357)から始まったようである。 そのとし7月、24代大内弘世は住吉神社に次のような朝敵退治の祈願状を納めている。 当国長州凶徒退治事早速達所存者当社於一宮遂修造並臨時之祭礼令参詣 可致精誠之状如件 散位多々良弘世御判 正平12年7月12日 凶徒を退治したら社殿を修復し、臨時の祭礼を執りおこなって自分も参詣するというのである。「凶徒」とは、長門国の有力豪族であり、かねてから大内氏と対立関係をつづける厚東氏をさしている。 周防国衙の在庁官人として律令制下の薄い存在をかこっていた大内氏が、一方で新興勢力たる武士団を抱えながら、この地方での統領にのしあがるきっかけは、文治元年(1185)における源平争覇決着以後におとずれてくる。 しかし鎌倉幕府成立後しばらくは、新しい武家機構の中に大内氏が組み入れられるということはなかったのである。在地武士の雄として大内氏が日本史の舞台に躍り出るのは、室町幕府の登場による天下動揺の時代を迎えてからで、つまり南北両朝の抗争がそれを促したといえる。 南北朝の対立によって分裂した中央情勢は、そのまま全国の武家勢力を二分し、およそ60年間におよぶ戦乱期を現出した。周防・長門を分けあって睨みあう大内氏と厚東氏の勢力争いも、両朝の抗争とかさなりあいながら展開されるのだが、むしろ中央権力の分裂情況を利用して、みずからの領土的野心を遂げようとする地方豪族の私闘とみることもできる。そしてその領土的野心をむきだしに戦いを挑むのは、厚東氏よりも大内氏であった。 大内氏にあって防長統一をめざし、はじめて具体的行動に出たのが弘世である。彼が軍を進めて長門征覇に乗り出したのは正平10年(1355)のことで、前記住吉神社に祈願状を納めたのがその二年後であった。 厚東氏の系図を見ると、17代義政のときで、「文和4年(注、正平10年)乙未ヨリ大内左京大夫弘世長州へ打入リ玉ヒ、義武ハ延文3年(注、正平13年)戊戌正月2日落去厚東云々」とある。 この時期、大内弘世は南朝側に属す宮方であり、厚東義武は北朝側つまり武家方の立場である。だから弘世は義武を朝敵とし凶徒と呼んで征討の大義をとなえるわけである。 だが、その弘世が正平18年には宮方から武家方に転向している。室町幕府の九州探題であった斯波氏経の強い誘いを容れて、鞍替えしたのだ。変節の代償としで、彼は幕府から周防・長門の守護職に任じられた。防長統一への手がかりと武家機構参画への第一歩を踏み出したことになる。 これは厚東氏に対する室町幕府の変節でもあった。怒った義武は、逆に南朝側に乗り移った。旗印を取り替えた両者の闘争は、義武の新たな支援者としてあらわれる九州の宮方菊池氏などの介入も加えて激しさを増して行く。 大内弘世が住吉神社に祈願状を納めた前後の政情は、概略そのようなものだった。菊池の大軍に押されて、大内軍が敗走するというようなこともあったが、結局正平23年(1368)いらい厚東氏の記録は消滅している。物部氏を祖とする長門の名族厚東氏は、最後の領主義武の消息も不明のまま歴史から抹殺された。弘世は、その野望を遂げたのである。 彼が祈願状で誓った住吉神社の社殿造換を実行したのは、応安3年(1370)のことであった。春3月11日、新装なった住吉神社で大内弘世臨席のもとに遷宮式が修行された。 それまでの住吉神社は、おそらく荒廃した社殿をさらしていたにちがいない。もともと律令制下の神社は国家的な手厚い保護を受けており、鎌倉時代に入っても、新しい支配者である幕府が神仏の崇敬に意をそそいだ。『御成敗式目』のはじめには、神社を修理し祭祀をもっぱらにすべき事がうたわれていたのである。 ところが南北朝時代になると、国家の統一力が失われて寺社の保護がおろそかになり、社殿や神事は退廃した。住吉神社もその例外ではなかっただろう。大内弘世が荒廃した社殿を造換しようとしたのは、彼の崇敬の念を裏付ける行為だが、厚東氏征討の成就と引き換えにという祈願内容はいかにも乱世の武将らしい発想といえる。 南北朝時代に終止符が打たれるのは、弘世の子義弘の代になってからだが、一時の小康があったのち、やがて応仁の乱を経て、再び全国的な争乱を現出する戦国時代に突入する。大内氏は29代政弘から30代義興の治世である。 弘世以後、大内氏の代々は、住吉神社の保護に意をもちいた。山口に小京都をかたちづくる以外、大内氏の領内地方行政には、ほとんど見るべきものがないが、その中で寺社に対する関心だけが光っている。しかも住吉神社のように単なる祭祀をつかさどるだけでなく、権力の末端機構を兼ねる存在として勢威をふるったことも見逃せない。 いずれにしてもそれらには大内氏の神仏に対する崇敬が根本に敷かれているわけだが、これは乱世を生きた武将たちに共通する傾向でもある。血を血で洗い、骨肉相食む戦国の世を、権謀術数と変節にあけくれる武将たちが、敬虔な信仰心を抱きつづけたというのは一見矛盾しているようで、またそうでもないのは、日常化した極限情況に身をおく彼らの行動理論が、いわゆる倫理を越えたところにあったということだろうか。 あるいは乱世の人間不信が、人格の絶対的価値と尊厳を自己にのみ認めるという内面の志向が、神仏への熱烈な信仰につながる精神過程をなすのかもしれない。信頼できる他者を現世に持たないために、ひたすら神に祈るしかなかった彼らのすさまじい生きざまが、壮麗な神社建築の背景を重くいろどっているように思えてならないのだ。 大内氏が伝える宗教的文化遺産の最たるものは、住吉神社本殿と瑠璃光寺五重塔だが、とくにこの住吉神社のばあい、防長を統一し、やがて日本史の本流に樟さして行く大内氏の出発点に立つ記念碑的意義をこめた遺物というべきだ。その優美な景観の奥には、荒々しい人間の情念が、今も息づいているようである。 由緒書 |
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住吉神社 住吉の大神は,神代の昔、伊邪那岐命が黄泉国(死の世界)から帰って穢を清められた時出現された神であります。 仲哀天皇の9年(200年)神功皇后さまが三韓征討のときに再び御出なさいまして、「吾が和魂は玉身の寿命を守り、荒魂は軍船を導かん」との御教示により大神を守神として進軍され、その神助により交戦することなく戦勝いたしました。その神恩に感謝し、神功皇后さまは、この地に祠を建てて、住吉大神の荒魂をおまつりされたのが住吉神社の起こりであります。 爾来、長門の国一の宮と仰がれ,明治4年社格が制定されては官幣中社に列せられました。 荒魂・和魂とは、古代、神霊は荒魂と和魂という二つの霊魂により成り立つと考えられてきました。荒魂は、人間生活促進のため,勇猛果敢に活動する御霊をいいます。和魂は、温和で徳を備え、平和をもたらす御霊をいいます。 ◆本殿 本殿(国宝)は応安3年(1370)大内弘世の再建で、室町初期の代表的な建築です。九間社流れ造りといって、五社殿を合の間で連絡し、社殿上の正面屋根(檜皮葺)に千鳥破風をのせ、春日造りと流れ造りを組み合わせた特徴のある建物です。 ◆拝殿 拝殿(重文)は天文8年(1539)に毛利元就が寄進したものです。桁行三間、梁間一間の切妻造で、屋根は本殿同様檜皮葺きです。 ◆御田植祭 5月の第三日曜日には、御田植祭が斎行されます。このお祭りは神功皇后が住吉大神に毎日お米をお供えするために、田圃を作り、苗を植え、御田植祭が行われるようになりました。今から千数百年前のことです。爾来、連綿と受け継がれ、昭和28年より「下関市農業祭」として執り行われています。 吉神社宝物館 開館時間 午前9時から午後4時まで申し込みに応じて開館いたします。 休館日 年末年始、5月第3日曜日、 9月23日、12月8日から12月15日ほか。 拝観料 大人(高校生以上)100円 子供(中学生以下)50円 ※要事前電話連絡(0832-56-2656) ◆ 銅 鐘{重要文化財} 朝鮮鐘。日本と朝鮮半島を合わせても現存するのは五十数点しかない、貴重な資料です。竜頭(りゅうづ)や、音筒(おんとう)などに朝鮮鐘独特の技法がみえます。 ◆ 住吉社法楽百首和歌短冊{重要文化財} 後土御門天皇および勝仁親王(のちの後柏原天皇)の御歌をはじめ、近衛政家、飛鳥井雅俊、三条西実隆など室町時代の著名な歌人29名の和歌短冊を一帖にしたもので、別に三条西実隆の序文があり、住吉神社奉納の理由を記しています。この法楽和歌は、宗祇が大内政弘のすすめで新撰菟玖波集を撰集するにあたり、無事成就することを長門一の宮である当社に祈願、明応4年(1495)六月に完成したので、同年12月12日、法楽和歌百首をまとめて献上し、神の助けに感謝したものであります。 ◆ 金銅牡丹唐草透唐鞍{重要文化財} 室町時代の作で簡素な作りではありますが、古式の飾鞍の特色を伝えた例の少ない貴重な資料とされています。神社の伝承によれば大内義隆の奉納と伝えられます。 ◆ 萌葱絲威肩白胴丸{下関市指定有形文化財} 長府藩藩祖毛利秀元所用の伝来がある室町時代中期の作である兜と、江戸時代初期は下らないと推定される胴丸からなります。長府毛利家に藩祖の遺品として伝世したもので、昭和26年に、毛利元海氏が奉納されたものです。 公式HP |
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住吉神社 今から1784年前、住吉大神の御『荒魂』を鎮祭され、爾来、延喜式内・名神大社、長門国一宮、国幣中社(明治4年)、官幣中社(同44年)、神社本庁別表神社(昭和22年)として現在にいたる。 拝殿には『住吉荒魂本宮』の懸額がある。 御神徳 『荒魂』とは、積極果敢に物事を成就させ給う御神威の顕現であり、古来特に勝神としての信仰が強く、交通安全、(新車祓)海上安全、厄祓、清祓等の祈願が多く、(特有性)家内安全、商売繁昌、五穀豊穣、学力向上、当病平癒等はもとより(通有性)こうした『進路守護』の御神徳は、何時の世も高く仰がれるところである。 祭典 (主なるもの) 和布刈祭・旧元旦 御田植祭・5月第三日曜日 神幸式・9月秋分の日 河渡祭・12月15日 御齋祭・12月8日〜14日 例祭・12月15日 御社殿 本殿(国宝) 拝殿(重文)外 別掲 宝物 銅鐘(重文) 唐鞍(重文)外 別掲 社叢 八〇余種の樹林(県指定) 別掲 昭和59年記 社頭掲示板 |