配志和神社は泥田廃寺跡(現在の国立岩手病院付近)がある丘陵部に鎮座していたとされている。 景行天皇40年日本武尊が東夷征討の途次この地に瓊瓊杵尊、高皇産霊尊、木花開耶姫を「岩座山」通称九本山に勧請とある。この地を火石輪宮と称した。 |
配志和神社 配志和神社の元宮があったという磐座山は、周辺になだらかな丘陵が続く場所ですが、南丘陵山腹の泥田に、10世紀頃までに寺院が築かれます。この寺院はやがて廃寺となりますが(泥田廃寺)、それと前後して、配志和神社の祀りの中心が、磐座のある「(御)室」(おむろ〉山から、「梅森山」とも呼ばれる現在の蘭梅山に移動したようです。この蘭梅山について、「九州の大宰府に配流された菅原道真の子が磐井地方にやって来て、父の霊を慰めるため、現在の蘭梅山に梅の木を植えた」という伝説があり(宝暦・安永風土記)、御霊信仰の波及がこの地にも確認できます。 「小さな杜に坐す(います)神」一関市博物館 |