大高山神社
おおたかやまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】大高山神社(名神大) 陸奥国 柴田郡鎮座
          (旧地1)大高山神社【旧地】
          (旧地2)大高山神社(大河原町金ケ瀬新開)

   【現社名】大高山神社
   【住所】宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬神山45
       北緯38度2分19秒、東経140度41分57秒
   【祭神】日本武尊 橘豐日尊 (合祀)迦具土尊 大山祇命
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】日本武尊東征のときこの地に仮宮安置
       敏達天皇元年(571)白鳥大明神を祀って創建
       崇峻天皇2年(588)橘豊日尊(用明天皇)を合祀
       承和9年(843)5月従五位「続日本後紀」
       貞観11年(869)23月12日従五位上「三代實録」
       康和5年(1103)6月神事を穢せるによつて中祓『朝野群載』
       永萬元年(1165)6月藤原清衡所領を神祇官白川家に寄進
       元禄年間(1688−1704)火災で旧平村字新開遷座
       享保20年(1735)正一位宗源宣旨
       明治5年3月郷社
       同40年3月神饌幣帛料供進社指定
       大正3年1月現在地に移祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと金ケ瀬の街の北方約1.5Kmの小山に鎮座
        元禄年間旧平村字新開に遷座
        大正3年1月現在地に移祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 大高山神社
   【社殿】本殿入母屋造銅板葺
       拝殿・幣殿・神舞殿・神輿殿・鐘楼

   【境内社】
   【別当】大高山大林寺

もと金ケ瀬の街の北方約1.5Kmの小山(旧柴田郡平村台ノ山)に鎮座していたが、元禄年間(1688−1704)火災に罹り、ために旧平村字新開に遷座(台ノ山の旧社地の東南約500mの地で、同じ丘陵の突端部に當る)。更に大正3年1月現在地に移祀された。


由緒

人皇30代敏達天皇の元年(571)日本武尊を祭神として創建されたが、推古天皇の御守、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀された。
縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せ見ることによって、日本武尊が夷賊征伐の際、この地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭した。
場所も新開の台の山であったが、元禄初期の火災焼失によって、新開126番地に移し、その後大正3年に金ケ瀬神山に移築遷座され現在に至っている。
延喜式神名帳によると当時陸奥国に百座の延喜式神社があり、その内大社が十五座、小社が八五座で大高山神社は大社の一つ。全国二八五座の一つでもあり郡内唯一の神社である。
本殿は元禄の建物で、正応6年銘(鎌倉時代中期)の鰐口は東北最古のものとして国指定重要文化財になっている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大高山神社

人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。
その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君) を合祀しております。
  縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が 蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神 として日本武尊を奉祭したと言われています。
 場所も新開の台の山までありましたが、元禄初期の火災焼失により、新開126 番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。
 平安初期における儀式や制度のありさまを成文化したものです。
神明帳によると当時陸奥の国には100座の延喜式神社があり、 その内大社が15座、 小座が85座で大高山神社は大社の一つ です。 全国285座の一つでもあり郡内唯一の神社です。
 本殿は元禄の建物で、正応6年銘(鎌倉時代中期)の鰐口は 東北最古のものとして国指定の重要文化財となっています。

社頭掲示板



大高山神社

大高山神社(延喜式内社) 江戸期まで柴田郡總鎮守として崇められた当社は、敏達天皇が即位した敏達元年(571)に日本武尊を祭神とし創建、後に推古天皇御代、聖徳太子の父橘豊日尊(用明帝)も合祀された。承和9年(842)従五位の下から従五位に昇叙(格上げ)、左大臣藤原忠平がまとめた延喜式には、国から貢ぎ物を受ける全国285社の一社となり、明治5(1872)には郷社となる。本殿は江戸中期の建物で、施設内には国重要文化財の東北最古の鰐口(1293銘)、文治年間(1185〜1189)藤原忠衡寄進の鉄九輪塔、江戸期の絵馬など貴重な文化財を多く所蔵する。

社頭掲示板



大高山神社

敏達天皇(572)元年の創建といい、又、崇徳天皇2年欽明天皇第4皇女橘豊日尊(後の用命帝)を合祀すとの社伝あり。元、平村台ノ山に御鎮座になっていたが元禄年中火災に罹り字新開に遷座。更に大正3年、1月現在の地に移祀した俗称白鳥明神、大高宮(大鷹宮とも)と称す。仁明天皇承和9年(842)無位より従5位下に清和天皇貞観11年(869)3月従5位上に昇叙、延喜の制には名神大社に班した。享保20年3月宗源宣旨を以て正一位に昇る。又、秀衡三男和泉三郎忠衡は鉄塔1基を献じ承暦2年(1078)には源頼義社殿を造営し後白河院まで勅使の参向祭事の興行の事あり。朱印領1石5斗を奉進する等、皇室武門の崇敬が厚かった。明治5年、3月郷社に列格、同40年3月神饌幣帛料供進神社に指定された。境内社の蚕影神社には文治元年(1185)常陸国筑波山麓神郡村から移した古社で昭和41年、現在の地に遷座申し上げたのである。

宮城県神社庁



白鳥信仰伝説

日本武尊が東国平定に向かわれたのは景行天皇40年(110)のことです。 帰り道、伊吹山にて大蛇にふれて痛み、伊勢に入り能褒野にて息絶えましたが、尊は白鳥になって飛び去りました。白鳥の飛び来たったところ全て尊の霊場として祀ったのです。
 この『白鳥伝説』 が語り継がれているうちに、橘豊日尊ともまつわり合うようになってきました。
 橘豊日尊は、第29代欽明天皇の皇子で、勅命を受けて東国巡幸の旅に出られました。東国の住民は心から喜んで迎え、立派な宮殿を造り奉献したといいます。ここで赤坂長者の娘玉倚姫(たまよりひめ)との恋物語を展開し、約三年間滞在されたと伝えられます。
玉倚姫は、世にもまれな美人であり、性格も温和貞淑で、尊の寵愛は募ります。
姫は、白鳥が飛び来たって胎内に入る夢を見てまもなく皇子が生まれました。尊は、入国以来白鳥を神と崇めて祈願した賜物と喜ばれました。都より帰還の命を受け、別れを惜しみ泣き叫び尊のそばを離れようともしない姫に、尊は「三年後には必ず迎えの使者を使わす」と納得させて帰られました。
 心に焼きつく恋しい尊を想って三年を過ごした姫の元には使者は来ず、やがて病に倒れました。乳母は悲嘆にくれる姫を見るに偲びず、皇子を抱いて河畔に出ました。
「姫は今、尊を思い煩い、命を落とそうとしています。あなたは神様の化身だから、母上の身代わりになって、父君を呼び戻してください。」と祈り皇子を川の中に投じました。 すると、皇子は、不思議にも白鳥となって深谷の鳥越の里から大和目指して飛び立ったといいます。
 やがて訃報が尊の耳に届き、姫のために立派な墓を建てて弔ったところ、日夜悲鳴していた白鳥が飛び上がり空中を旋回したと伝えられています。
ごく最近まで、白い羽を拾うと「これは白鳥の羽である」と言って、神様にお供えする風習が残っていました。白い羽を粗末に扱うと神罰があるというのは白鳥神化の思想の現れでしょう。

公式HP



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