胆澤川神社は大同2年(807)郡民が胆澤郡中の耕田の水脈たる胆澤川の水神を尊び、澤女神を水源に鎮祭 春祭で水口祭ともいわれる猿岩の作祭りは現在も脈々と生き続けてゐる。石淵猿岩に詣でて猿岩椿(雪椿)と熊笹を護符とともに受け、田植のときに椿と笹を田の水口に立てて豊稔を祈るのである。 本社名、水口祭がアイヌ文化と関係が深いとの説がある。 |
由緒 当神社は、明治4年に「於呂閉志神社」と「胆沢川神社」を同床に合祀した延暦17年(789)の延喜式神名帳に記載された神社です。 胆沢川神社は大同2年(807)坂上田村麻呂の勧請と伝えられ、祭神は水速女命として水神様を祀る神社であり、祭日は9月12日である。 於呂閉志神社は、元来石淵地区の猿山に鎮座する。「於呂閉志神社略縁起」によれば広仁元年(801)、嵯峨天皇の勧請と伝えられています。祭神は、須佐男之命、木花咲耶姫命を祀り、祭日は、4月29日、この春の例祭には、神の「よりしろ」となる椿、隈笹、お札からなる「御守札」を配る作神様として神事がみられます。 本殿には方一間木造入母屋造で、桟唐戸には黒漆塗に金泥をもって竹に雀、九曜紋並びに桐紋を描いた旧伊達宗章廟厨子が収納されています。 江戸時代初期の様式美が窺えます。 平成2年 月 胆沢町教育委員会 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
於呂閇志胆澤川神社 当社は平城の朝、大同2年(807)郡民胆沢川の水神を鎮祭し奉り、該川の水を分して灌漑する所を胆沢郡という。郡中この水脈を使用して耕田の功業を成す故に、郡民沢女命の神璽を水源に鎮祭して胆沢川神社と崇敬した。入民の藩息を分掌する神霊にして延喜式内に列す。 明治4年(1871)王政維新の時村社に列格す。明治40年(1907)5月24日、同村社延喜式内於呂閉志神社を合祀、村社於呂閉志胆沢川神社と改称す。 奥宮は桓武の朝、延暦20年(801)坂上田村麻呂東征の折勧請にして延喜式内に列する神社なり。明治40年(1907)5月24日、村社胆沢川神社へ合祀し奥宮となる。村社於呂閉志胆沢川神社と改称す。 岩手県神社庁 |