奥宮の鎮座地は、高山険阻にて初冬より雪積もりて、翌年春まで参道を埋め、殊に女人禁制の霊山なれば老少婦人の参詣心にまかせず、里人これを憂いて山麓に一社を建て拝するため奉斉。 明治4年(1871年)、山頂の本宮(奥宮)が近代社格制度において国幣小社に列するにあたり、本宮・里宮とも参拝に不便であるとして、当時の水沢県県庁に近い鹽竈神社の本殿が仮遥拝所となされた。 |
由緒 駒形神社は第12代景行天皇40年、日本武尊東夷征討の折、当地駒ヶ嶽山頂に国土安寧と民心安定を祈念し、奥州鎮護の神として勧請し給うとあり、創祀は太古に属するも東夷平定の業漸く進んで、この地方に鎮守府が置かれし頃より神威中央に及び、文徳天皇仁寿元年(851)9月には正五位下を加えられ、清和天皇の貞観4年(862)6月従四位下に昇り、延喜式にも列せられた東北地方における第一の名社である。 当社里宮については、奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は、高山険阻にて初冬より雪積もりて、翌年春まで参道を埋め、殊に女人禁制の霊山なれば老少婦人の参詣心にまかせず、里人これを憂いて山麓に一社を建て拝するため奉斉とある。封内風土記、奥宮の次に「其ノ二、里ノ御堂ト号ス。山上婦人ノ登拝ヲ禁ズ。故ニ堂ヲ山麓ニ建テ、婦人之ヲ拝使ム。」 終戦前は国幣小社駒形神社境外末社の指定を受く。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
駒形神社 陸中一宮 駒形神社中宮(俗称 里宮) 御祭神 天常立尊 大日霊尊 別名(またのな)天照皇大神 国狹槌尊 別名(またのな)国狭土尊 吾勝々速天忍穗耳尊 彦火火出見尊 別名(またのな)火遠理命 日子穂々出見命・山幸彦 置瀬尊 別名(またのな)天杵火火置瀬命 祭典日 祈念祭 旧1月1日 鎮大祭 旧3月15日 例大祭 旧9月19日 駒形神社は社記によると第12代景行天皇40年皇子日本武尊東夷鎮帝の砌、国土安寧と民心安定を祈念し、奥州鎮護の祖神として六神を奥羽山脈の最高峰駒形山に勧請し給う、とあります。 従って、その創祀は大古に属するも、奈良朝、東夷平定の業漸く進んでこの地に胆沢城が築城、鎮守府が置かれし頃より神威中央に及び、国史には延暦21年正月征夷大将軍坂上田村麻呂朝廷に奏上し、陸奥国三紳に神階を加う、とあり第55代文徳天皇仁寿元年正五位下に叙せられ、第56代清和天皇貞観4年従四位下に勧められ、奥羽最高の神階を受け給う。 第60代醍醐天皇の御代に制定せられた延喜式神名帳にも搭載され神階をより一段と高めました。 里宮 神霊の鎮り給う駒形山は天下の霊山で、諸人歩みを運ぶといえども山勢はなはだ峻険にして登拝困難なり、更に中腹のウガイ清水より女人禁戒の霊山なれば老少婦人が参詣心にまかせず、里人これを憂い、山麓に社を建て御神霊を勧請し奉斎したのが当神社であります。 封内風土記、奥宮の次に ■二、当里御堂、山上禁婦人之登拝 故建堂於山麓 使婦人拝之 とあります。 明治の御代に至り国幣社となり、当社は境外末社に定められ祭儀を厳修、戦後は無格社として氏子、崇敬者の赤誠により尊仰されて居ります。 社頭石碑 |