駒形神社
こまがたじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】駒形神社 陸奥国 膽澤郡鎮座
          (里宮)駒形神社(里宮)
          (奥宮)駒形神社(奥宮)

   【現社名】駒形神社
   【住所】岩手県奥州市水沢区中上野町1-78
       北緯39度8分11秒、東経141度8分18秒
   【祭神】駒形大神
   【例祭】9月18日 例大祭
   【社格】旧国幣小社 陸中一宮
   【由緒】雄略天皇21年京都の籠神社宇賀御魂大神を分霊鎮祭
       景行天皇40年日本武尊東征のおりに勧請
       嘉祥3年(850)慈覚大師焼石連峰の東端大日岳の頂上に鎮座
       仁寿元年(851)9月2日正五位下
       貞観4年(862)6月18日従四位下
       明治4年5月14日国幣小社
       同7年社殿修理の時から正式遙拝所
       同36年神霊を山頂から遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は和賀煤孫にあった
        嘉祥3年(850)慈覚大師が焼石連峰の東端大日岳の頂上に鎮座
        その後駒ヶ岳頂上に遷座
        明治7年現在社が正式遙拝所となる
        同36年神霊を山頂から遷座

   【祭祀対象】駒ヶ岳の山岳神とそれに結びつけられた馬神との信仰
   【祭祀】
   【公式HP】 駒形神社
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所・手水舎・神門・社務所
       祭器庫・参集所・参籠所・額殿

   【境内社】塩竃神社・山神社・招魂社

由来によると、元は和賀煤孫にあったが嘉祥3年(850)慈覚大師が焼石連峰の東端大日岳の頂上に鎮座した。現在も駒形大明神と銘する神号碑が立っている。その後、1120mの駒ヶ岳頂上に遷座。
麓社は謄澤郡金ケ崎町西根と和賀郡和賀町岩崎にある。
駒形神社の現在の社地は、もと塩釜神社の鎮定地であったが、明治4年(1871)5月、国幣小社に列せられたときに、里宮、奥宮ともに交通不便の地で、県知事等の参向ができかねるため、当時水沢県庁の地に社殿を仮遥拝所と定めた。明治7年(1874)に社殿を修理し正式の遥拝所とした。
「馬」と「駒形神」との關係は深かつたものと思われ、もともと地域にあつた駒ヶ岳の山岳神とそれに結びつけられた馬神との信仰に発する神社であろう。


由緒

御鎮座地
本社 岩手県水沢市中上野町一
奥宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字駒ヶ岳
御祭神
駒形大神
文徳天皇仁寿元年正五位
清和天皇貞観4年従四位下(奥州最高の神階也)
延喜の制により小社と列せられる
奥宮について
往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していた。大日岳とは現在の奥宮の鎮座地なる駒ヶ岳の南方に高くそびえる霊山で、現に駒形大明神と銘する神号碑がある。
この駒ヶ岳、大日岳は牛形山その他の山々とともに旧噴火山の外輪山を形成し、駒形山というのはこれらの連峰を総称したものであり、当社が最初大日岳に鎮座せられたというのは、この岳が連峯中の最高峰であったためである。
近世の奥宮は、現在地の駒ヶ岳の頂上に建造され建坪、三坪三分五厘、宝玉造で東北にむかっている。この地、山陽は胆沢郡で伊達氏の旧領地であり、山陰は和賀郡で南部氏の旧領地であり、両氏領土の境界に鎮座せられそのうえ両氏の崇敬はなはだ厚かったから、神祠は両氏の公費営繕で二十年ごとに改造されるというのが例であった。
本社について
当社の社地はもと塩釜神社の鎮定地であったが、明治4年5月14日国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため県知事等の参向することもできかねる為、当時水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治7年社殿を大いに修理し正式の遥拝所とした。さらに明治36年、神霊を山頂より遷座、塩釜神社は同社の別宮なる春日神社に合祀して、社殿いっさい駒形神社に編入した。
本殿、拝殿はもと水沢城主留守宗利が寛永6年に建立したものであるが、安政6年火災に罹りことごとく烏有に帰したため、留守邦命文久3年再興したものである。なかでも本殿は西磐井郡衣川村の大工熊谷萬吉が奉納した欅(けやき)の巨木一本ですべて作られた、三間社流造である。
さらに現社殿は、昭和8年奉遷三十周年を記念し総工費62600円(内務省補助32600円)をもって大修理、新築、社地の整備をし名実ともに陸中一の宮にふさわしい神社となったものである。
里宮について
里宮は駒ヶ岳の山麓およそ12Kmへだてた金ヶ崎町西根字雛子沢に鎮座して戦前は境外末社として位置づけられていたが現在は、新法に依り独立して祭典を行っている。
奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は天下の霊山であり、山勢はなはだ峻険であるため登拝して御神霊を拝すること困難、さらに中腹のウガイ清水より先は女人禁制であったので、里人、老若婦人の参拝の便をはかり御神霊を勧請して奉斉したとある。
旧南部領岩崎にも里宮があるが、今は当社との関係は絶えている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




駒形神社

陸中鎮護駒形神社
御鎮座地
本社 岩手県水沢氏上野町1
奥宮 岩手県胆沢群金ケ崎町西根字駒ケ岳
御祭神
    文徳天皇仁寿元年正五位
駒形大神 清和天皇貞観4年従4位下(奥州最高の神階也)
    延喜の制により小社と列せられる
御由緒
奥宮について
往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していた。大日岳とは現在の奥宮の鎮座地なる駒ヶ岳の南方に高くそびえる霊山で、現に駒形大明神と銘する神号碑がある。
この駒ヶ岳、大日岳は牛形山その他の山々とともに旧噴火山の外輪山を形成し、駒形山というのはこれらの連峰を総称したものであり、当社が最初大日岳に鎮座せられたというのは、この岳が連峯中の最高峰であったためである。
近世の奥宮は、現在地の駒ヶ岳の頂上に建造され建坪、三坪三分五厘、宝玉造で東北にむかっている。この地、山陽は胆沢郡で伊達氏の旧領地であり、山陰は和賀郡で南部氏の旧領地であり、両氏領土の境界に鎮座せられそのうえ両氏の崇敬はなはだ厚かったから、神祠は両氏の公費営繕で二十年ごとに改造されるというのが例であった。
本社について
当社の社地はもと塩釜神社の鎮定地であったが、明治4年5月14日国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため県知事等の参向することもできかねる為、当時水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治7年社殿を大いに修理し正式の遥拝所とした。さらに明治36年、神霊を山頂より遷座、塩釜神社は同社の別宮なる春日神社に合祀して、社殿いっさい駒形神社に編入した。
本殿、拝殿はもと水沢城主留守宗利が寛永6年に建立したものであるが、安政6年火災に罹りことごとく烏有に帰したため、留守邦命文久3年再興したものである。なかでも本殿は西磐井郡衣川村の大工熊谷萬吉が奉納した欅(けやき)の巨木一本ですべて作られた、三間社流造である。
さらに現社殿は、昭和8年奉遷三十周年を記念し総工費62600円(内務省補助32600円)をもって大修理、新築、社地の整備をし名実ともに陸中一の宮にふさわしい神社となったものである。
里宮について
里宮は駒ヶ岳の山麓およそ12Kmへだてた金ヶ崎町西根字雛子沢に鎮座して戦前は境外末社として位置づけられていたが現在は、新法に依り独立して祭典を行っている。
奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は天下の霊山であり、山勢はなはだ峻険であるため登拝して御神霊を拝すること困難、さらに中腹のウガイ清水より先は女人禁制であったので、里人、老若婦人の参拝の便をはかり御神霊を勧請して奉斉したとある。
旧南部領岩崎にも里宮があるが、今は当社との関係は絶えている。
別宮塩竈神社
御祭神
塩釜神 塩土老翁神 部甕槌神 経津主神
相殿 天児屋根神 比売神 藤原鎌足朝臣
御由緒
塩釜神社は、後冷泉天皇の御代、源頼義、義家父子が阿倍貞任を征伐した時に祈願をこめ、凱旋の後に水択に塩釜の神を勧請して創建したもので、その故をもって邑名を塩釜とつけ、のち留守氏が当地に封ぜられた折、元の郡の神の故をもって特に崇敬した。
寛永六年留守氏は当社を大修繕し、明和2年には、高丘を選び現在地に遷座して領内の守護神とした。それ以来、別当及社家をおき祭祀にあたらせ当地方一大名祠として信仰を集める。
明治36年駒形神杜が駒ヶ岳山頂より御神霊を当地に奉遷するにいたり、社殿をおゆずりもうし上げ、塩釜神は別宮の春日神社に遷座し現在の姿となった。
相殿の御祭神はその春日神社に留守氏が氏神としておまつりしていたものである。御本殿はこの春日神社の本殿で、明治二年留守家の御創建にかかるものだが、昭和13年4月、内務省の許可のもと官民あげて解体大修理をし、さらに拝殿を新設した。当建物は日光職人の手によって作られその彫刻の精緻さと豪華きは当地方に類をみない。
祭日は8月10日で水沢夏まつりとして、当地方最大の祭として賑わう。又奉納武道大会、文墨祭は御祭神の御神徳によって年々盛んとなっている。
末社 山神社
御祭神  大山祇神 木花咲耶姫神
大山砥神は、山の神とたたえまつり、田畑山林を守り、木花咲耶姫の父神にあたる。木花咲耶姫命は皇孫瓊々芸命の后神として富士山頂にまつられ、安産の神として信仰が篤い。
現社殿は、裏参道を登りつめた外苑にあったが昭和53年11月、一、五倍の寸法で復元し内庭の現財地に遷座したものである。
祭日 10月12日
招魂社
御祭神
郷土出身の護国の英霊
当社は、明治10年天照大神宮の護分霊を水沢公園内に祀ったがいつしか荒廃し、その跡地に明治42年戊辰戦争を始め日清日露の戦の庭に散った護国の英霊を御まつりして水沢招魂社として建立きれ、以来日支事変、大東亜戦争等によって御祭神も増加、在郷軍人会にて手厚く管理運営されていた。
しかし終戦後は、遺族の悲憤に堪えぬほど荒れはててしまったので、昭和35年駒形神社境内地へ社殿を建立し御遷座申し上げ毎年の祭祀も厳修して慰霊の誠を尽している。
皇室の御崇敬
近くは、明治41年大正天皇東宮に坐ぜし時、御車を駐め侍従をして御代拝、大正5年皇子淳宮殿下、高松宮殿下御拝、大正7年今上陛下東宮に坐せし時、侍従を御差遺、同11年久邇宮邦久王殿下御参拝、更に昭和3年今上陛下、侍従を御代拝として御差遺、昭和11年、秩父宮殿下親しく脚参拝、昭和45年には今上陛下侍従をして幣帛料を下賜。
更に昭和8年には大鳥居扁額の御書を閑院宮載仁親王殿下より、下賜、又昭和40年には、北白川房子様(元皇族)に「陸中国一の宮」の扁額御書を下賜される。

社頭掲示板



駒形神社

当神社 ご祭神は奥州開拓の祖神■農耕牧畜を始め住民の・霊を守護し給う駒形大神にまします。もと奥羽山脈の高峰駒形山に鎮まり給えり。
その創祀太古に属するも延暦年間蝦夷平定のためこの地に胆沢城を置かれし頃より神威漸く中央に及び仁寿年間正五位下に叙せられ貞観年中更に従四位下に至り奥州最高の神階に進み給えり。
天喜年中源頼義、義家父子の阿倍氏を征するや当社の神威を仰ぐ所深く奥州藤原氏また崇敬の誠を捧げおりと伝う。
由来駒形山は峻険にて登拝困難なれば山麓2カ所に里宮ありしを明治4年国幣小社に列せらるると共に別に当地に遙拝所を設け、又明治36年よりは神霊を山頂より奉遷してこの地に鎮祭せらる。当社の分社は東北各県より関東に亘りその数一百余社に及ぶ。
摂社塩釜神社は往古胆沢郷鎮定の守護神として陸前より勧請せられ歴世武神としての霊威顕著たる由緒を有し給う。

社頭掲示板



駒形神社御由緒

御鎮座地   本社 岩手県奥州市水沢区中上野町1−83
         奥宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根駒ケ岳
         里宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根雛子沢13
御 祭 神 御祭神六神を駒形大神(こまがたのおおかみ)としている。六神は、天照大御神、天之常立尊、国之狭槌尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火火出見尊。
御 神 徳 (ご利益) 産業開発、交通安全、必勝祈願、方位除け、家内安全
御 由 緒 上古の代、関東に毛野一族が台頭し、赤城山を崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配したが、後に上毛野国と下毛野国に分れ、下毛野氏は日光火山に二荒山神社を創建。休火山を背景として奉祀されたもので、赤城火山の外輪山にも駒形山があり、二荒山神社の古縁起に『馬王』という言葉が散見する。上毛野・下毛野氏は、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ケ岳又は駒形山と名付け、駒形大神を奉祀した。奥州にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ケ岳と命名した。これは、上毛野胆沢公によるものであり、時は雄略天皇の御代(456年ころ)であった。このように全国の秀峰に祀られた駒形神社の中で、延喜式神名帳にあるのは宮城県栗原郡駒形根神社と当社の二社のみである。当社が従四位下に神階を進めたのは、陸奥国胆沢城を創建した征夷大将軍坂上田村麻呂による崇敬の念の篤かったことから始まり、この鎮守府の度々の上奏によるものだった。駒形という名称は、古く赤城神社をカラ社と呼んだ歌があり、コマをカラと歌った。当時の朝鮮は高麗朝時代であり、文化伝来の憧れの国でもあったのでコマということばを用い世間に誇示した。箱根山縁起の箱根神社が駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請したと記載しているのと同様である。このように赤城の神は駒形の神とも言える。坂上田村麻呂や源頼義・義家父子も駒形大神を篤く崇敬し、武運祈願成就した事実を知るにつけ、奥州に栄華を築いた藤原四代の崇敬も篤かった。平泉より北上川を隔てて、東に望む束稲山は駒形山とも言う。このことは峻険な駒ケ岳を度々登拝することは困難を来たす事もあり、この山に駒形大神を奉祀したと考えられる。箱根縁起に藤原秀衡が銅をもって神像を鋳。駒形の神に祀ったことは藤原氏がいかに崇敬の誠を捧げたか想像することが出来る。かくして駒形神社の崇敬は華々しく、分社は東北各県より関東に亘り、その数、百余社に及んでいる。
例 大 祭 9月19日(宵宮祭9月18日、交通安全祈願大祭9月20日)
奉遷記念大祭 5月3日(宵宮祭5月2日、子供騎馬武者行列5月3日、
交通安全祈願大祭5月4日)
大 祓 式 夏越の大祓6月30日、年越の大祓12月30日
月始祭 毎月1日
月次祭 毎月19日

公式HP



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