冠川神社【八坂神社境内社】
かむりがわじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】志波彦神社(名神大) 陸奥国 宮城郡鎮座
          (現在社)志波彦神社

   【現社名】冠川神社
   【住所】宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前11-7
       北緯38度18分20秒,東経140度56分46秒
   【祭神】志波彦大神
   【例祭】4月21日 例祭
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

もとは岩切村の冠川の辺(仙台市宮城野区岩切)に鎮座していた。祭神は塩釜の上に協力してこの地を開拓という。
中世以降は衰微し、社地は百姓の耕作によって侵され、天正年間には火災により神具や縁起などの資料を失い、延宝3年(1675年)の再建時には6尺四方の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀されていた。
明治7年12月24四日塩釜神社別宮殿角に奉遷したが、旧社殿は八坂神社境内に「冠川神社」として残っている。
八坂神社

文治五年(1189年)六月七日、高森城主の伊澤家景が京都の祇園から勧請し岩切村・余目家の城内に鎮座し、圭田・二十石を納めた神社です。
その後、同村台ヶ原頂上に鎮座して天王山と稱(しょう)しましたが戦国天正の頃より社殿が荒廃しました。
仙台藩主伊達政宗は、寛永年中に天王山より現在の地に遷宮し、祭田二百文(二石)の地を寄進し厚く祭事を行いました。
神仏混淆により、祇園牛頭天王社と称しましたが、明治の初めに現社号に改め、明治6年に郷社に列し、大正3年12月に幣帛供進社に指定されました。
明治43年4月、各区内鎮守社、十七社を本社に合祀しています。
(合祀十七社)
小物忌神社(村社/羽黒前)・諏訪神社(羽黒前)・若宮八幡神社(羽黒前)・天 神 社(羽黒前) ・三 社 宮(今市)・矢崎神社(畑中)・八幡神社(畑中)・志賀神社(鶴ヶ谷)・松木神社(燕沢)・熊野神社(燕沢)・神 明 社(堰下)・諏訪神社(小鶴)・八幡神社(小鶴)・八幡神社(雑社/小鶴)・羽山神社(小鶴七反田)・熊野神社(無挌社/新宿)・雷 神 社(生沢)   

社頭掲示板



冠川神社

志波彦神社(冠川神社)は、明治4年5月国幣中社に御治定されたが、境内も狭く満足な祭典を行うことが不可能なため、明治天皇の御思召によって、勅使御差遣の上「 此地に新宮造奉りて鎮め奉らむ日まで 此御殿の内に座せ奉り併せ祭らせ給うがゆえに、御幣帛奉出し仕へ奉らしめ給う事を平らけく聞こし食せと 」と奉せられ、明治7年12月24日に塩竃神社の別宮本殿へと遷祀された。
昭和7年、当時の内閣に陳情請願し国費をもって造営することとなり、昭和9年現在地工事を起こし、明治・大正・昭和にわたる神社建築の粋を集めて竣功し、昭和13年9月に御遷座した。

社頭掲示板



境内社冠川神社(志波彦神社)

冠川神社は、志波彦神社の名でも知られている八坂神社の境内社である。
天正に縁起を焼失、沿革不詳だが本社は延喜式内名神大社志波彦神社で、いつ頃よりか甚だしく衰微もていたが、延宝3年の再建には堅石五尺横六尺の小祠になり、しかも摂社である天王社と並び立つ状であった。
明治4年5月14日、官国幣社規定に当り国幣中社に列せられたが、社地が狭いため社殿造建不可なる理由により、明治7年2月24日、塩竈神社へ遷座。
明治10年3月31日、官許を得て志彦神社分霊を岩切村の旧社に奉遷して冠川神社と稱し、国幣中社志波彦神社、塩竈神社の摂社に指定された。

社頭掲示板




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