都都古別神社奥宮
つつこわけじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】都都古別神社(名神大) 陸奥国 白河郡鎮座
          (本社)都都古別神社

   【現社名】都都古別神社奥宮
   【住所】福島県白河市表郷高木字高野峯
       北緯37度3分14秒,東経140度19分43秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】石祠
       

   【境内社】

表郷地域の高木三森地区に存在する、円錘型をした標高403mの山が建鉾山(武鉾山)である。伝説によれば日本武尊(やまとたける)が東征した際、この山頂に鉾を建てて神を奉斎したとされ、頂上に建鉾石といわれる岩と小祠がある。
大同2年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられる。


建鉾山祭祀遺跡

表郷地域の高木三森地区に存在する、円錘型をした標高403mの山が建鉾山(武鉾山)である。伝説によれば日本武尊(やまとたける)が東征した際、この山頂に鉾を建てて神を奉斎したとされ、頂上に建鉾石といわれる岩と小祠がある。
この山の山容は典型的な神奈備型で、山頂付近に露出した珪質岩の母岩は、古来、神の降臨に相応しい磐座(いわくら)、石神とされた。安政3年(1856)の古図によれば、北側斜面の巨岩下は「御宝前」と記され、地区住民すら立ち入れない神聖な地であった。また、棚倉町馬場都々古和気神社がかつて鎮座していたとの伝承をもち、明治16年(1883)まで、都々古和気神社より、奥の院であるこの神域に、古式にのっとり行列する御神幸と称する神事が行われていたと伝えられる。
昭和32年(1957)、この地で石製模造品が発見されたことを発端に、國学院大学の亀井正道等により第一次調査、翌33年(1958)に第二次調査が行われた。
調査の結果、遺構は検出されなかったが、鏡・勾玉・剣・鎌・刀子・斧頭形、有孔円盤、小玉等の石製摸像品、その他の鉄鉾、青銅製擬鏡、鉄刀、鉄剣の金属製品、土師器、壺、高杯等の膨大な遺物が出土した。出土状況から祭祀の終了後に廃棄されたものと考えられ、古墳時代中期のものと推定されている。遺跡の規模は東北地方南部では最大であり、東日本を代表する祭祀遺跡である。

白河市HP



建鉾山祭祀遺跡

指定年月日 昭和55年3月14日
所在地 白河市表郷高木字高野峯ほか
所有者 都都古別神社
建鉾山(武鉾山)は円錐型をした標高403mの山です。伝説によれば、日本武尊が東征した際、この山頂に鉾を立てて神を奉斎したとされ、頂上には建鉾石といわれる岩と小祠があります。
山の姿は典型的な神奈備型(神の領域)で、山頂付近に露出した珪質岩の母岩も、古来から神の降臨に相応しい磐座・石神とされていました。
安政3年(1856)の古図によると、北側斜面の巨岩下は「御宝前」と記されており、地区住民すら立ち入れない神聖な地でした。
また、かつては棚倉町の馬場都々古和気神社が鎮座していたとの伝承もあり、明治16年(1883)までは同社の神事が行われていた、とも伝えられています。
昭和32年(1957)と33年の発掘調査では、鏡・勾玉・剣・鎌の形をした石製模造品、青銅製擬鏡、土師器などの膨大な遺物が出土しました。古墳時代中期(5世紀)の、東日本を代表する祭祀遺跡と位置づけられています。
白河市教育委員会

社頭掲示板



片葉ヨシ 日本武尊御手洗い水

このヨシは葉が片方にだけ生えています。
昔天喜年間、今から950年位前後冷泉天皇の御代源義家が東征の折武鉾山(高野峯山)に戦勝祈願のためこの地まで来ました。その時愛馬が腹痛をおこし困り果てました。
その時この清水を呑み、側に生えていたヨシを食べて元気を取り戻しました。その時食べられたヨシの葉が今でも芽生いることなく生長しています。この武鉾山は、高木部落の古文書にお宝前と記されている巨岩の下に子供達が遺物品を発見、数多くの勾玉、鏡、白玉、直刀など出土いたしました。
案内板設置 表郷 村の案内人

社頭掲示板




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