大我井神社
おおがいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】白髪神社 武蔵国 播羅郡鎮座
          (旧地)妻沼聖天山歓喜院

   【現社名】大我井神社
   【住所】埼玉県熊谷市妻沼 1480
       北緯36度13分41秒,東経139度22分42秒
   【祭神】伊邪那岐命 伊邪那美命 (配祀)大己貴命
       (合祀)倉稻魂命 誉田別命 天照皇大神 速玉男命 事解男命
          天穗日命 石凝姥命 菅原道真

   【例祭】4月17日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】景行天皇40年創建という
       治承3年(1179)聖天社を勧進
       建久8年(1197)歓喜院を開設
       慶長9年(1604)社殿造営(聖天宮)
       明治2年大我井神社造営
       明治6年3月村社
       同40年10月神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は聖天宮の地
        明治2年現地に大我井神社造営

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「聖天宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神門・社務所

   【境内社】富士浅間神社・若宮八幡神社・宝登山神社・愛宕神社
        八坂神社・稲荷神社・水神社・八坂神社


かつて聖天宮と混祀されており、明治の神仏分離に際し、新たに社殿を営んで創立した神社(明治2年)である。
日本武尊 東夷征伐の砌り、軍糧豊饒の為に二柱大神相殿二神を合祭、始て大我井の森に稲置を建給いし神社という。
鎮座地は利根川右岸の自然堤防の上。
奈良期に入植した渡来系氏族が、大我井の森に神社を祀ったことにはじまる。
平安後期に当地を支配した斎藤実盛が、自らの守護神であった聖天社を勧進し、以来総鎮守として発展するが、同時に白髮神社の信仰は衰退。その後聖天宮は、忍城主成田氏や徳川家康によって庇護された。
当社は神仏分離令によって明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。
明治2年に社名を二柱神社から、古来以来の森にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営。


大我井神社唐門の由来

当唐門は明和7年(186年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治42年10月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正2年10月村社の西門として移転したのであるが爾来40有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した。
時に昭和30年10月吉晨なり

社頭掲示板



住僧と神職の争い

慶応4年(1868)9月、神仏分離の布達に際し、当宮に奉仕する彌宜職の三人(田島河内・堀越大和・橋上宮内)は、密議を交して村役人に相談もせず、京都及び東京の裁判所に願い出て聖天宮を神宮の掌中に獲得しようと謀つた。そのため時の住僧稲村英隆は入獄の難を受けたが、氏子一般民は寺院側に加担する者多く、神職側に不利が生じて止むなく時の判事の斡旋により、当時の聖天境内十二町九反余を二分し、七町九段余は聖天宮境域とし、残り五町余は大我井神社社地となし、「如絵図面、、宿井往來可爲境事」と定めた。また「当村外廿八箇村、二柱之神之可爲氏子事」・「聖天之儀者、從是後、当村外二十八箇村永代可爲講中事」として円満に解決をみたのである。

式内社調査報告



大我井神社

鎮座地は、利根川右岸に半島状に突き出た自然堤防上にある。周囲は低地で、太古、利根川が氾濫した折に大海のようになり、水が引くと大きな沼が二つ残った。古代の人々は、上の沼を男沼、下の沼を女沼と呼び、これらの沼には水の霊が宿ると信じた。このため、この二つの沼を望む自然堤防の突端に社を設け、季節ごとの祭祀を行った。
この社とその周辺は、巨木が林立し昼なお暗い森を形成していた。森は、現在の「大我井神社」「聖天山」の境内地を合わせたほどの広さで大我井の森と呼ばれる神域であった。
奈良期、当地一帯に入植した渡来人は、この大我井の森に白髪神社を祀った。白髪神社は。『延喜式』神名帳に登載された幡羅郡四座の内の一座である。平安後期、利根川右岸は開発が進み、現在の妻沼町とその周辺を含む長井荘が誕生した。長井荘の荘司である斎藤氏がこの地を得たのは、前九年の役(1051)で戦功のあった実遠からで、以後、実直・実盛と三代にわたり勢威を振るった。殊に、実直の養子に入った斎藤則盛の子である実盛は信仰篤い武将で、治承三年(1179)に日ごろから守護神として身近に置いた大聖天歓喜院を祀る聖天社を大我井の森に建立した。以後、聖天社は長井荘司の信仰する氏神として荘民からも崇敬を受け、次第に長井荘の総鎮守として発展していった。この時期、白髪神社の信仰は既に衰退し、かろうじて社名のみを残す社となっていた。
その後、聖天社は幾多の変遷を経て室町後期、成田郷を本貫とし、忍城主となった成田氏の保護を受けた。これは妻沼の地が成田氏所領の内の騎西領に属し、庶民の崇敬を受けていたからである。天正18年(1590)、小田原の北条氏に与力した成田氏の居城である忍城は、豊臣旗下の石田三成に攻撃され落城した。このため、聖天社は成田氏の保護から離れ、代って関東に移封となった徳川氏の支配に組み込まれた。慶長9年(1604)に家康は社伝を造営するとともに五〇石の朱印地を寄進した。
慶応4年(1868)から全国諸社に神仏混淆を禁じるため、神仏分離令が布達された。聖天社禰宜は、このような時流に乗じ、別当・社僧・社守修験を廃し、純然たる神社として祭祀を行うことを主張し、歓喜院と係争に及んだ。しかし、由緒ある聖天社の運営について長く係争することは崇敬者のためにも良しとせず、別当・禰宜・村役人立会いのもと明治元年12月、和解が成立した。
「議定書」によると、聖天社境内のうち妻沼宿並びに往来の東側に新たに分離独立した伊弉諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を再興し、禰宜はこの社の祭祀に専念すること、聖天社そのものは「聖天山」と改称し、以後寺院として歓喜院が運営すること、従来の崇敬区域である妻沼村ほか二八か村は、二柱社の氏子並びに聖天山の永代講中とする、とある。聖天山から分離独立した二柱神社は、明治2年、社名を古代から神の坐す大我井の森にちなみ、大我井神社と改称し社殿が造営された。

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