安閑天皇の御宇、富田鹿(ロク)なる者が、富田村字塚越に小祠を建てて小被の神を祠つたことに始まる。 鎌倉期には武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬をあつめていた。 もとは塚越(現在地よりも南西に約800m・不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地)に鎮座していたが、天正年間の荒川大洪水によって、赤浜村民が隣地を耕作地として与えられて移転。このときに赤浜村民が村境を超えて富田村内の土地を領有しようとしたため、寛文9年に赤浜村との村境に当社を鎮座させることによって、境界を明らかにさせ、隣村の横領を防いだという。 |
由緒 由緒 富田邑は、第27代安閑天皇の朝、郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと伝承。 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1063年前。 男衾郡総鎮守。 旧村社。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |