小被神社
おぶすまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小被神社 武蔵国 男衾郡鎮座
          (旧地)小被神社(旧地)

   【現社名】小被神社
   【住所】埼玉県大里郡寄居町富田 1508
       北緯36度6分36秒,東経139度14分25秒
   【祭神】瓊瓊杵尊 (配祀)木花咲耶姫命 彦火火出見尊
   【例祭】4月14日
   【社格】旧村社
   【由緒】安閑天皇の御宇創立
       寛文9年(1669)現地へ遷
       元治元年(1864)3月9日宗源神宣で正一位大明神
       明治4年11月11日村社
       同41年7月1日神饌幣帛料供進

   【関係氏族】壬生氏
   【鎮座地】もともとは塚越(南西約800m不動寺境内)鎮座
        寛文9年(1669)現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「明神社」「小被大明」神と称していた
   【社殿】本殿見世棚造
       拝殿・神樂殿

   【境内社】内宮神社・白山神社・愛宕神社・稲荷神社
        神明神社・八坂神社・山ノ神社


安閑天皇の御宇、富田鹿(ロク)なる者が、富田村字塚越に小祠を建てて小被の神を祠つたことに始まる。
鎌倉期には武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬をあつめていた。
もとは塚越(現在地よりも南西に約800m・不動寺境内)に鎮座していたが、天正年間の荒川大洪水によって、赤浜村民が隣地を耕作地として与えられて移転。このときに赤浜村民が村境を超えて富田村内の土地を領有しようとしたため、寛文9年に赤浜村との村境に当社を鎮座させることによって、境界を明らかにさせ、隣村の横領を防いだという。


由緒

由緒  富田邑は、第27代安閑天皇の朝、郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと伝承。
延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1063年前。
男衾郡総鎮守。
旧村社。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



小被神社

小被神社略誌
鎮座地 埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神 主神 瓊瓊杵尊
    相殿 木花咲耶姫命
    相殿 彦火火出見尊
由緒 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1081年前。
男衾郡総鎮守
旧村社
御神徳 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳を有する神様。
相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。富士浅間神社の御祭神。
相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、国土経営をなされた神様。
祭日
1月1日 新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
4月第二日曜日 春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。
五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を祈願する。
10月第二日曜日 秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。
本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
12月31日 大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
平成18年10月吉日
小被神社社務所

社頭掲示板



小被神社

当社は、「延喜式」神名帳に登載される男衾郡三座の一つで、古代から郡の惣鎮守として崇敬されている。
 社伝によると、古代当社を奉斎した氏族は、安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿で、これが郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したとある。富田鹿の事跡は、現在明らかではない。これについては。地内にある古墳時代後期の伊勢原古墳群の発掘調査の成果を待ちたい。
 また、この富田鹿のほかに古代当社に関与した氏族は、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族「壬生吉志」氏であると考えられる。この氏族の関連資料は「類聚三代格」と「続日本後紀」にある。これによると、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和8年(841)自らの子供の生涯の調庸を全納し、承和十二年(845)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した有力者であった。おそらく壬生吉志福正は、男衾郡惣鎮守である当社に対し、大領としての政治的配慮から関与したものであろう。
 鎌倉期に入ると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けたといわれる。「武蔵七党系図」によると、猪俣時範の子、重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。ちなみに、この不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地は、当社の旧鎮座地であった。
 鎮座地の移転については、「武州男衾郡上下富田村与赤浜村境論之事」に次のようにある。天正年間(1573〜92)、荒川の洪水により右岸にあった赤浜村は疲弊した。このため、当時この辺りを領していた鉢形城主北条安房守の臣、大久保氏が、赤浜村民に対岸の富田村馬草場を耕作地として与えた。ところは、その後、赤浜村民が富田村の村境を越えて土地を領有してきたので、富田村民は、江戸初期、当社を村境に移転し、境界を明らかにしたという。
 「風土記稿」によると、別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺が務めた。
 明治期に入ると、神仏分離により不動寺は当社の祭祀から手を引くことになった。この時の「議定書」によると、明治二年、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して当社の神職となっている。
 「明細帳」によると、明治四十年、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀した。現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろう。
 当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれたものである。このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に掛けられず、社務所内に掛けてある

埼玉の神社



明神川赤浜南側道路改修記念碑

本地域は大里郡寄居町の東方に位置し、東武東上線、男衾駅より、約1.0kmにあり、北側を赤浜集落、南側を吉野川が流下し、又県道赤浜小川線に囲まれた自然豊かな地域てある、当小被神社はすぐ前を流れる明神川の左岸に鎮座廷喜式内社であり冨田地区の総鎮守として古くより里人の信仰を集めてきた。
然るに今日の地域の発展に伴い明神川、及び赤浜南側道路の改修が望まれた、これらを解消すべく地権者の協力と氏子の皆様、及び総代の熱意と団結且つ努力、又町行政の御指導に対し深く敬意を表すと共に感謝を申し上げ本事業が地域発展に多大に寄与すること大なりと信じ皆隷の繁宋と幸せを祈念しつつ人の和を讃えここに事業完成を祈念し碑に刻んで末長く後世に伝えんとするものである。
平成27年4月古日
宮司 持田倫武 撰文
総代長 栗原茂樹 撰文

社頭石碑



小被神社

小被は郡名に同じ○祭神瓊々杵尊、(地名記)○富田邑に在す、(同上)例祭月日、

神社覈録



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