入間川と霞川の合流の複雑な地形に鎮座する。 日本武尊が東征の途中、この地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社(明神大社・官幣大社)の地域によく似ていると称し、幣帛を立てて穀物の神である若宇迦能売命を祀り、武運長久と五穀豊穣を願ったことに始まるという。 境内には狛犬がないのが特徴的。祭神が女神のため、荒々しいものを嫌うとされ、獅子の狛犬が遠慮されたという。 境内に大欅があり、コノハズクが営巣するとのことで初夏には多くの人が訪れる。 当社の旧社殿は、現境内の東北隅に南面していたが、明治43年、社地整備の折、社殿も改築して現状の如く東面せしめた。なお、旧社殿の跡には紀念碑を建立して、その地点を明示している。 |
由緒 遠く景行天皇の御代、日本武尊命東夷を征討の折り、当地が大和国川合の地に酷似せりと称し親ら幣帛を奉り、広瀬の神を斎き祀り武運長久国家安泰を祈誓せられしより創始せりと言う。文徳天皇の3年6月、武蔵国広瀬の神を官社に列すと見え、延喜式内社に挙げられ武蔵国四十四社に数えられる。以後、宝蔵寺火災の際焼せられ古文書等の記録を焼失せしも崇敬益々加わり、年代の久しき間少しも変遷無し。 明治6年、郷社に列せられ、同7年県社に昇格す。同42年、境内の北隅に有りしを現在地に本殿を移し拝殿を新築し、その他社務所神楽殿の施設を整えり。大正9年、本殿の覆殿を再築し、昭和7年、神楽殿を改築。昭和15年、紀元2600年記念事業とし太鼓楼を新築せり。昭和50年、社容整備を始め外柵、玉垣、祭器庫、神輿舎、摂末社等の改築修繕等もなり、社容いよいよ整い現在に至る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
広瀬神社 埼玉県狭山市大字上広瀬鎮座 延喜式内社広瀬神社 当社祭神ハ若宇迦能売命ヲ奉祀ス創立年月ハ詳ナラズト雖モ伝語ニ景行天皇ノ御代王子日本武尊東夷ヲ征討シ給ウ時ニ是地相ノ大和国川合ノ地ニ酷似セリト称シ親ラ幣帛ヲ奉リ広瀬ノ神ヲ斎キ祀リ武運長久国家安穏ヲ祈誓セラレシニ依リ創始セリト言ウ。 文徳天皇3年6月武蔵国広瀬ノ神ヲ官社ニ列スト見エ延喜式内社ニ挙ラル爾後崇敬益加リ年代ノ久シキ間少モ変遷ナシ。 明治6年郷社ニ列セラレ同7年県社ニ昇格ス同44年4月本殿拝殿社務所其他ノ設備全ク整ヘ大正9年4月覆殿ヲ再築セリ。 恒例ノ祭祀弥尊厳ヲ極ムルニ至レリ当社祭典中尤モ盛ナルハ古式神事ニシテ神輿ヲ四境ニ巡幸シ四隅ニ塞神ヲ祭ルノ式アリ。即チ年穀ノ豊穣ヲ報賽シ悪疫ヲ退却スルノ儀ニシテ地方ヨリ参拝スルモノ多ク頗ル賑ヘリ。 宝物 崇光天皇御宸翰 一軸 備前長船太刀 一口 豊後国住人僧定秀刀 一口 外数点 祭日 例祭 4月4日 祈年祭 2月19日 古式神事神輿渡御祭 10月17日 感謝祭 11月25日 延喜式内社 広瀬神社社務所 社頭掲示板 |
廣瀬神社 廣瀬神社略記 埼玉縣入間郡水富村大字上廣瀬鎮座 祭神 主祭神 若宇迦能売命 相殿神 八衡比古命 八衡比売命 久那斗命 創立 大和時代の景行天皇(第十二代)の御代、日本武尊命東国平定の折、当地が大和の国河合の地に酷似せりと称し、親ら幣帛を奉り、(大和の国の)廣瀬の神を斎き祀りて、武運長久国家平穏を祈誓せられしより創始せり」との社伝があり、創立は、三世紀に遡る。 由緒 「狭山市の社寺誌」において、「当社は、大和朝廷により勅命により官社に列せられた数少ない神社であり、由緒正しく、当時すでに関東において格の高い名神として崇められていた・・・。狭山市の神社の中で最も古く、格式高い神社である。」と記述されている。 主たる記録は次のとおり。 (官社) 『文徳天皇実録』の嘉永3年(850年)6月3日の条に「武蔵の国廣瀬の神を官社に列す」との記述あり。 (延喜式内社) 延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』に「武蔵国四十四座 入間郡茣蓙の内一つ 廣瀬神社」と登録されている。 (県社) 明治6年郷社、同7年県社に列せられた。 (主祭神) 若宇迦能売命 (相殿神) 八衡比古命 八衡比売命 御神徳 久那斗命主祭神は、水の守り神であり、風雨の調和による穏やかな世の中、豊かな実りを守る神である。 五穀豊穣、家内安全、健康長寿の御神徳がある。水に因んでの崇敬者は遠方からも見える。 相殿神の三神はいずれも禍を防ぐ神である。 御本社に当たる廣瀬大社(奈良県河合町)の御記略においては、『主祭神(若宇迦能売命)は、水の守り神である。天武天皇以降歴代の天皇より、風雨の調和、年穀の豊穣等を御祈願され、国家の瑞祥、または禍害あるごとに、奉告御祈願された。』と記されてる。 末社 杉森稲荷社、八幡神社、霞神社 社容整備 明治42年、本殿及び拝殿を境内北隅から現在地に遷宮。大正9年、本殿覆殿再築 昭和7年、神楽殿改築、昭和15年、紀元二千六百年記念事業として太鼓楼を新築 社頭掲示板 |
社叢 狭山市廣瀬神社社叢ふるさとの森 平成2年3月31日指定 身近な緑か姿を消しつつあるなかで、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようとこの社叢が「ふるさとの森」に指定されました。 この神社の創立は三世紀頃に遡るとされ、延喜式神名帳には武蔵四十四座のひとつとして記載されています。境内にはケヤキの大木が多く、なかでも市の天然記念物である二本の神木大棒は、樹高50m、幹周6m、樹齢七-八百年(推定)という稀にみる巨木です。 この大檸については、新編武蔵風土記にも「社辺に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、これを神木とす」と記されています。 平成3年3月 埼玉県 社頭掲示板 |
廣瀬神社大欅樹 市指定文化財 廣瀬神社大欅樹 勢回復工事概要 この大欅は、江戸末期の「新編武蔵風土記稿」に御神木と説明されておリ、また「巨樹・巨木林調査報告書」(1991年環境庁)に「目通り3m30、樹高32m」と記録されている。 樹齢800年と伝えらりれる御神木であり長寿祈願にあやかれる。初夏には、アオバズクやツミ(鷹)の営巣を観察できる。 〔工事概要〕 実施主体 廣瀬神社大欅樹勢回復 実行委員公(会長 宮野仁太郎) 工事対象 市指定文化財大欅2本 契約額 6,173,300円 請負者 野村枝術士事務所 樹木医 野村静男(長瀞町) 新井土建(当所) 工期 平成8年11月〜平成9年2月 [募金状況](平成8年12月現在) 募金協力者 1,873名 募金金額 2,877,092円 〔市・県補助金〕3,500,000円 平成8年12月 廣瀬神社 社頭掲示板 |
神輿 市指定文化財 工芸品 所在地 狭山市大字広瀬1612 広瀬神社 指定年月日 昭和61年11月1日 この神輿は、今から123年前の元治元年(1864)に当所の名主・清水寛右衛門宗宝によって奉納されたもので、作者は当所の大工横田長大夫である。 宝形造りで、全面黒漆塗り、四方の鳥居と垣及び内部は全面朱漆塗りである。壁面の一部は浮き彫りで、金箔押しとなっている。下框や屋根の頂など随所に透かし彫りや毛彫りによる金銅板の金具がとりつけられている。四方の垂木下には金銅製の飾り板と小さな円鏡数十個が波璃の玉を通した金糸で綴られ、垂れ飾りとなっており、拡張が高く豪華絢欄な神與である。 神輿並びに神與殿建立の棟札があり、その中に次の墨書きがある。 武州高麗郡上廣瀕巴 別当 名主 社補 清水寛右衛門宗宝 元治紀元甲子稔秋九月 大工 当所 横田長大夫 昭和62年3月 狭山市教育委員会 拠山市交化財保護審議会 社頭掲示板 |
広瀬囃子 狭山市指定無形民俗文化財 広瀬囃子 伝承地 狭山市広瀬2−23−1(広瀬神社) 指定年月日 昭和52年(1977)9月1日 広瀬囃子は江戸末期の万延、文久のころ、「笛の佐平にや鷲さえも唄を忘れて聞きほれる」と江戸末期に俗謡にまでうたわれた「佐平の笛」こと村木佐平と「天孤の喜十郎」こと飯島喜十郎らが中心になり、神田囃子を学んだことに始まるといわれています。 囃子は享保年間(1716〜35)に江戸の葛西郡取明神を中心に神楽囃子として作り出され、文化、文政年間には近在に普及しました。現在埼玉県内に分布しているものを大別すると、江戸系統の葛飾囃子、神田囃子、上州系統の三手古囃子、それに本県独特の系統の秩父囃子の三系統があります。入間、比企地方には神田囃子が多く、その中でも広瀬囃子は、県内でも珍しい神田古囃子を受け継いでいます。 曲目は屋台、聖天、大馬、鎌倉、師調目、仁羽、などで六曲あり、使用楽器は大太鼓一、小太鼓二、鉦一、笛一となっています。 毎年、広瀬神社の元旦祭、禅龍寺の節分会(2月3・4日)、広瀬神社春祭り(4月第一土曜・日曜日)、秋祭り(10月第三土曜・日曜日)、広瀬浅間神社の火祭り(8月21日)などに奉納囃子がおこなわれています。 平成15年3月 狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会 社頭掲示板 |
廣瀬神社の大ケヤキ 埼王県指定文化財 天然記念物 廣瀬神社の大ケヤキ 所在地 狭山市広瀬2−23−1(廣瀬神社) 指定年月日 平成10年(1998)3月17日 ケヤキは楡科の落葉高木です。農家では防風林として植えることが多く、武蔵野の景観にとけこんでいる馴染みの木です。普通、高さは20mぐらいまでですが、この大ケヤキは高さ約30m、周囲約6mというまれに見る巨木で、樹齢7〜800年と推定されます。 江戸時代末期の書物『新編武蔵風土記稿』の廣瀬神社の項に「…社辺に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、是を神とす、一は囲二丈、一は囲一丈五尺、一は囲二丈六尺余なり、是等を見て旧跡たることしるべし…」とあります。 現在はケヤキの巨木二本が相対して境内に立っております。 平成16年1月 埼王県教育委員会 狭山布教育委員会 社頭掲示板 |