広瀬神社
ひろせじんじゃ


戻るボタン





【廣瀬神社】

村の東南下宿にあり、當社のことは【延喜式】神名帳に武蔵國入間郡廣瀬の神社とあり、官社の説は前に辨ず、相傳ふ祭神は太田命倉稲魂命なりと、今祭るところは白髭明神なり、神體は束帶せる木の立像にて長一尺二寸、又本地佛のよし、徑り六寸四分の圓鏡中に鑄造せる佛像あり、像の左右に奉納武州高麗郡廣瀬郷大旦那、天正10年壬午9月吉日とえり像の下に景吉繁昌とあり、神體佛像上に圖す、社地一段一歩を除す、この餘林一段畠一段八畝あり、往古のことは更なり、今は僅に上下廣瀬村の鎮守にて、例祭9月19日なり、社邊に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、是を神木とす、一は圍二丈、一は圍一丈五尺あまり、一は二丈六尺餘なり、是等を見て舊跡たることしるべし、別當寶蔵寺は社の西にあり

新編武蔵風土記稿



【廣瀬神社】

廣瀬神社(狭山市上広瀬1612)(上広瀬字宮地)
当社は入間川北岸に鎮座している。社記によると景行天皇の御代、日本武尊東征の折、当地を流れる入間川が大和国広瀬河合の地によく似ていることから延喜式内廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より、若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えている。しかし、大和国の廣瀬神社は天武天皇4年(674)、小錦中間人達大蓋と大山中曾彌連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の河合に祀り、以来祭りを竜田神社の風神祭と同時に毎年4月と7月の4日に行うのが例であったということから、その創始は日本武尊東征よりずっと後のことである。このため、当社の創立も天武天皇4年以降ということになる。
おそらく、当社は中央から広瀬郷経営の任に当たった者の勧請と思われる。これは当地が河川合流点の広い河瀬に当たり、地形的にも大和国広瀬の地と類似していることから、水利の便に富んだこの地で、水神及び作神として広瀬の大神を祀ったものであろう。
入間郡内で延喜式記載の神社、すなわち、入間郡五座のうち、廣瀬神社と称するのは当社である。地名の初見は和名抄にみえる広瀬郷と思われ、文徳実録嘉祥3年(850)6月条に「詔以武蔵國鹿瀬神列官社」とある。この広瀬神は当社のことを示している。
祭神は、若字迦能賣命である。この神は字迦之魂神や豊受大神などと同神で食物を司る神である。
大和国の廣瀬神社の大忌祭は祝詞式に「御膳持たる若宇迦能賣命と御名は曰して」とあることから作神としての性格がうかがわれる。また、『風土記稿』によると「相伝ふ祭神は太田命倉稲魂命なりと、今祭るところは白髭明神なり、神体は束帯せる木の立像にて長さ一尺二寸」とある。
本殿内には、束帯の神像のはかに鋳造の懸仏があり、これには「奉納武州高麗郡廣瀬郷大旦那天正10壬午9月吉日諸旦那敬白」とあり、神仏習合時代の面影を留める。
別当は真言宗寿永山宝蔵寺で当社に隣接していた。この寺は高麗郡新堀村聖天院末で、一時、廣瀬神社の祭神に白髭明神が加えられたのもこの影響であると考えられる。文政6年11月、宝蔵寺は火災に罹り、この時、境内を接していた当社も類焼し古記録をほとんど失った。
本殿は一間社流造りである。また、境内には神社施設としては珍しい太鼓楼がある。これは、高さ6.5mもある入母屋造り、瓦葺きの建物で、楼の上にある大太鼓が祭典に合わせて打ち鳴らされる。
郷社になったのは明治6年で、同7年には県社に昇格した。合祀は明治40年に行われ、字坂下の愛宕神社、同境内社の浅間社・字坂上の八幡神社・字宮地の稲荷神社・字下郷の神明神社を合祀した。また、霞神社は戦後の合祀で、国家に尽力した英霊を祀っている。

埼玉の神社



廣瀬神社

廣瀬は比呂世と訓べし、和名鈔、(郷名部)廣瀬、(仮字上の如し)○祭神太田命、倉稻魂命、(地名記)○上廣瀬村に在す、今高麗郡に属す、例祭月日、
類社
伊豆國田方郡廣瀬神社
官社
文徳実録、嘉群3年6月己酉、詔以武蔵國廣瀬神、列於官社、

神社覈録



縣社 廣瀬神社

祭神 若宇迦能売廼命
文政6年、旧別当眞言宗宝藏寺祝融の災に罹りし際、当社伝来の古記古文書及古器等悉く鳥有に帰し、為めに創立起源を詳にすること能はずと雖も、古老相伝ふ、最行天息の卿宇、大和国廣瀬郡広瀬神社を勧請せるものにして、村名亦之に因すと、されば当社は現に文徳実録に、
「嘉祥3年6月己酉、紹以武蔵国廣瀬神、列於官社」
と見え、延喜の制、小社に列せられ、当国有数の旧社たり、御神体は新編武藏風土記稿に、
「神体は束帯セル木ノ立像ニテ、長一尺二寸、又本地仏ノヨシ。径リ六寸四分ノ円鏡中ニ鋳造セル彿像アリ、像ノ左右ニ、奉納武蔵高麗郡広瀬郷大旦那、天正10年壬午9月吉日、諸旦那敬白トアリ、像ノ下ニ、景吉繁昌トアリ、」
と見ゆ、明治6年郷社に列し、翌7年更に縣社に列し、縣社兼郷社となる、社殿は本殿、拝殿、幣殿、其他神輿殿等あり、境内は1752坪(官有地第一種あり、社頭大槻三株あり、里人神木と称す、新記注して云く、「一ハ圍二丈、一ハ圍一丈五尺、一ハ二丈六尺余、是等ヲ見テ、旧跡タルコトシルベシ」と。

明治神社誌料






戻るボタン


武蔵国INDEXへ        TOPページへ