出雲伊波比神社
いずもいわいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】出雲伊波比神社 武蔵国 入間郡鎮座

   【現社名】出雲伊波比神社
   【住所】埼玉県入間郡毛呂山町前久保 967
       北緯35度56分33秒,東経139度18分41秒
   【祭神】大名牟遲神 天穗日命
       (配祀)須勢理比売命 息長足姫命 豊受姫命 菅原道真
       迦具土神 素盞嗚命 建御名方命
       (合祀)大山咋命 (配祀)大国主命 少彦名命 上筒之男命
       (合祀)大日霊貴命 天鈿媛命 (配祀)伊弉諾尊 伊弉冉命 誉田別尊
       (合祀)高おか神 (配祀)大雷神

   【例祭】 11月3日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天平勝宝7年(755)に官幣
       康平五年(1062)源義家八幡大神を相殿に祀る
       建久年中源頼朝修造
       永享年中(1430ごろ)足利持氏社殿造営
       大永7年(1527)6月社殿炎上
       享禄元年(1528)9月25日毛呂三河守顕繁再建
       天正2年(1574)北条氏政は修営
       明治6年郷社
       明治39年4月神饌幣帛料供進指定
       昭和13年7月4日当社本殿国宝指定

   【関係氏族】出雲臣
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は武具を祀る
   【祭祀】江戸時代は「茂呂(毛呂)明神」「飛来明神」「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿(国指定重要文化財)一間社流造柿葺
       神饌所・祝詞舎・拝殿・握舎東西・神樂殿・社務所・祭祝庫・手水舎

   【境内社】

毛呂小学校北接、臥龍山の頂に鎮座する。
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年に倭建命が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
 当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
 中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。


由緒

出雲伊波比神社由緒
創立
景行天皇53年8月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり、平国治安の目的が達成せられたことをおよろこびになられ、天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝とし、侍臣武日命に命じて創立された社である。
歴朝御崇敬
成務天皇の代、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に崇敬祭祀され、また孝謙天皇の代天平勝宝7年(755)官幣にあずかり、光仁天皇の宝亀3年(772)には勅により幣を奉られ、以後歴代天皇御崇敬厚く御祈願所とされていた。醍醐天皇の御代[延喜7(907)]の頃延喜式内武蔵国入間郡五座の中に列せられた。
武士崇敬
康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝えられる(やぶさめの起こり)。(県指定民俗資料)。それ以後、例年この神事を執行し、山鳥の尾羽の箭一本を慶応3年まで幕府に献上したのである。建久年間(1190ごろ)源頼朝は秩父重忠に奉行させて檜皮葺(ひはだぶき)に造営し、神領をも寄附した。なお重忠も陣太刀・産衣(うぶぎぬ)の甲(よろい)を寄進したと伝える。
後花園天皇の代永享年中(1430ごろ)に足利持氏が社殿を瓦葺に造営、それも大永7年(1527)6月社殿炎上、また文禄年中(1590ごろ)社家が兵火にあい古文書などを失ったのである]大永7年に消失はしたものの翌8年、正しくは享禄元年9月25日に、毛呂三河守顕繁が再建した棟札が現存している点から、再建にすぐ着手されたと考えられ、県内最古の神社建築である(檜皮葺)。天文2年(1533)屋根檜皮葺大破のため瓦葺にし、天正2年(1574)北条氏政は大板葺(柿葺−こけらぶき)に修営、社領十石を附せられた。天正16年北条氏の乞により、鍾を寄進した(文書北条氏鍾証文)。寛永年間、幕府に神符献上の際白銀二枚を寄進せられ、以後七ケ年毎に神符を幕府に献上することを永例とした。寛永10年(1633)三代将軍家光修営、同13年には社殿を筥(はこ)棟造にし、棟上前面に葵の紋を附し、五七の桐の紋と共に現存、また慶安元年(1648)8月社領十石並に境内拾町九反五ほ畝歩を先規により寄進せられ永く祭祀修営の料としたのである。また寛永年中、代官高室喜三郎の時から元禄15年(1702)代官井上甚五右衛門、河野安兵衛にいたるまで毎年御供米一俵ずつ下附され、後、その例にならって毛呂郷中の地頭所から明治2年まで毎年御供米を附せられた。文政8年9月「臥龍山宮伝記」の著者斎藤義彦が神主幼少のため補佐して社殿解体修理。
明治以後
明治4年には社領を奉還し、逓減禄を賜わり明治6年毛呂郷中の惣鎮守の故をもって郷社に列し、明治22年8月20日内務省より保存資金壱百円を下賜され、同38年5月18日上地林壱町九反八畝二十四歩境内編入許可、39年4月勅令により神饌幣帛料供進することを指定され、同41年9月会計法適用指定、大正3年9月建物模様換認可をえて本殿を往古倭建命創立及び武蔵国造崇敬当時の旧地に遷殿し、中門祝詞屋を新築し、拝殿再営、透塀増延、大正5年10月模様換工事落成、千家男爵参向された。昭和13年7月4日当社本殿国宝指定、戦後文化財保護法制定により重要文化財建造物として指定され、昭和25年9月5日境内地譲与、測量、調査等に一年余日を費やして報告書作成大蔵省に提出中央審査を経て、9185坪04勺を譲与許可された。
(以下は由緒書に記載)
本殿昭和重修
当社は国史上顕著な社であり、県内最古の社であるが、腐朽甚しいので昭和32年3月国庫補助金、地元負担金総額290万円の工費をもって工事監督工博田辺泰氏、現場主任北村泰造技官を中心として解体復元工事着工、屋根、鬼板、箱棟、正面扉金具、縁廻り登階段等その痕跡に基き他の室町期の形式手法にならい復元を行なった。解体調査資料に基き現状変更したため総工費358万円を要し、昭和33年3月、一ヵ年の工期をもって完工、貴重な文化遺産として偉彩を放つこととなった。昭和58年拝殴改築。
平成4年8月

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




出雲伊波比神社

祭神 大名牟遅神・天穂日命・品陀和気銘・(応神天皇)・息長帯比売命 他
出雲を中心として国土経営・農業・産業・文化を興され全ての災を取り除かれた大名牟遅神、天孫のため出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに□支された大名牟遅神が杵築宮(出雲大社)に入られたのちそのみたまを斎き祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で家内安全・病気平癒・開運招福・商売繁昌の神としてあがめられる。
社地 古く出雲臣が祭祀する社であった。景行天皇53年に倭建命が東征凱旋の際侍臣武日命に命じて社殿創建・神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名 出雲伊波比の神名初見は宝亀3年の太政官符においてで当社は□□によってその証拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝7年には官幣に預る□□社となり延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社よよばれるゆえんがここにある。
本殿建築
流造一間社で屋根は桧皮葺型式、大永8年9月25日毛呂三河守藤原朝臣顕繁再建によるもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永8年・宝暦12年の棟札2面とともに国指定重要文化財。
昭和32〜33年文部省は解体修理を行った。
例祭 11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。920年の歴史を持つ。
昭和61年8月

社頭掲示板



入間郡正倉神火事件

事件のあらまし
 二枚の太政官符が残されていて、次のように内容を語ります。
 正倉が火事になった 769(神護景雲3)年《あるいは、772(宝亀3)年》9月のこと。入間郡(埼玉県)で、国家の正倉4軒が火事になり、備蓄していた糒穀(米)が10、513石焼けた。その上、百姓10人が重病に臥し、2人が頓死した。
 神の祟りだった 原因を占ってみると、それは神の祟りで、郡家(=郡衙)西北角の出雲伊波比(いずもいわひ)神が云うには、朝廷からいつも幣帛(へいはく)を受けているのに、このところ滞っている。そのため、郡家内外の雷神を引き連れて、火災を発生させた。ということである。
 そこで、祝(ほうり=神職)の長谷部広麿(外大初位下小)を呼んで訊ねると、出雲伊波比神は常に朝廷が幣帛を奉る神であるが、最近は給わっていない。と云う。
 関係文書を調べると、武蔵国で、幣帛を受ける社は、多摩郡・小野社、加美郡・今城青八尺稲実(いまきのあおやさかいなみ)社、横見郡・高負比古乃(たけふひこの)社、入間郡・出雲伊波比社である。それが最近、幣帛を奉ることが漏れ落ちている。
 よって、前例によってこれを実施せよ。(宝亀3年12月19日太政官符)
 郡司が処罰された もう一枚の太政官符は、事件の内容はほぼ同じで、「郡司を処罰する。しかし、郡司の譜第を絶つことなかれ」と郡司職について言及するものです。(宝亀4年2月14日太政官符)
 ◎幣帛というのは神にたてまつるものすべてを云うらしく、玉串が思い浮かびますが、延喜式では、制(あしぎぬ=粗製の絹布)、五色薄制(いついろのうすぎぬ)、木綿、麻、庸布、刀、楯、戈(ほこ)、弓、鹿角(しかのつの)、鍬(すき)、酒、アワビ、堅魚(かつお)、干物、海藻、塩、・・・など多数を挙げています。
 ◎769(神護景雲3)年《あるいは、772(宝亀3)》と3年の差がある年号は、二つの太政官符の間に神火が発生した年の記載に違いがあるためです。その解釈を巡って、学者の間では議論が交わされています。私は解決するすべを持ちませんので、併記します。詳細は次の文献に記載されています。
 土田直鎮 古代の武蔵を読む 吉川弘文館
 森田悌   古代の武蔵    吉川弘文館

http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/



飛来明神社

八幡宮と並びたてり、或は毛呂明神とも唱へり、社領十石の御朱印を賜はる、よりて考るにこの明神地主紙なるべし、寛永年中大河内金兵衛・伊奈半十郎・連署の材木御寄附の状にも、毛呂の神主望申に付而、八幡宮造營の爲と云々、この飛来と號することは社傳に、古季綱親王當國下向の時、氏の神其迹を慕ひて飛来りににより飛来と號すと、もとより取に足ざる説なり、季綱は則毛呂太郎季綱が事にて、親王と稱すべきいはれなし、天正年中小田原北條氏より寄附の證文、今社人のもとに傳ふ、其文に毛呂大明神とのす、これによればそのかみ、毛呂氏代々の氏神なることは論なし、又堂山村最勝寺所蔵大般若經の奥書に、延徳四年六月廿八日、於臥龍山蓬莱神書幟之とあり、飛来恐くは此蓬莱を誤り傳へしにや、是も棟に御紋を彫り、前に拝殿を設く、例祭年々九月廿舊日、流鏑馬を興行なせり。
石鳥居。神楽殿。祈祷所。
末社。太神宮、神明社、春日社、松尾社、熊野社、稲荷社二、雷電社。
季光社。毛呂太郎季綱の父、豊後守季光の靈を祀ると云。

新編武蔵風土記稿



出雲伊波比神社

当社は、毛呂郷の中央にそびえる臥龍山上に鎮座する。臥龍山の名は、遠望すると竜が伏しているように見えることに由来するという。
社伝によれば、当社は、景行天皇の43年に、日本武尊が東夷征伐からの帰途、この地に立ち寄った際、天皇から賜った比々羅木鉾を神体として、侍臣武日命を祭主に命じ、開拓祖神である大名牟遅神を奉斎したことに始まるとされる。この時の鉾は、今も本殿内に奉安されており、東北鎮護という意味から穂先は東北に向けられている。
成務天皇の代には、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に当社を崇敬し、祖神である天穂日命を合祀した。武蔵国造家は、出雲臣という姓からも察せられるように出雲と関係が深く、また、大名牟遅神は出雲大社に奉祀されている大国主神であることから、ここにおいて「出雲の神を斎う」という意味を持つ「出雲伊波比」の社号がついたものである。下って天平勝宝7年(755)には官社に預かり、『延喜式』において武蔵国入間郡五座の中に列している。
このように由緒ある社ではあったが、大永7年(1527)に火災のため烏有に帰してしまい、翌年には毛呂参河守顕繁を大旦那として再建された。現在の社殿はこの時のもので、室町時代の古建築であることから、昭和一二年に重要文化財に指定された。
中世における修復の記録としては、天文2年に檜皮葺きの屋根が大破したことから、これを瓦葺きに改め、更に天正2年には北条氏政が柿葺きに改めるとともに社領一〇石を寄進している。
江戸時代には将軍家から厚い崇敬を受け、寛永年間に神札を献上し、その際、白銀二枚を寄進されたことから、以後七カ年ごとに神札を幕府に献上することを例とした。寛永10年には将軍家光により社殿の修営が行われ、屋根を箱棟造りとし、棟上前面に葵絞が付けられた。更に慶安元年には将軍家から社領十石及び境内十町九反五歩の寄進を受けた。また、寛永年中に代官であった高室喜三郎から元禄15年の井上甚右衛門・河野安兵衛の代に至るまで、歴代の代官より御供米が毎年1俵ずつ寄進された。その後も、この例に倣い、毛呂郷中地頭所から明治2年まで御供米が毎年献上された。
しかし、長い間には、出雲伊波比という社号は忘れられ、中・近世の諸記録には「茂呂(毛呂)明神」「飛来明神」「八幡宮」などと記され、氏子の間では「明神様」と呼ばれるようになっていった。
『風土記稿』には、八幡社と飛来明神が別々の社として記されており、飛来明神については毛呂季綱(氏子の項参照)の祖神とし、「八幡宮と並たてり、或は毛呂明神とも唱へり、社領十石の御朱印を賜はる、よりて考るにこの明神地主神なるべし」と述べている。
一方、八幡宮は、源頼義父子が奥州平定に際し、当社に武運を祈願しその験あって凱旋の途中、康平元年に再び当社に参詣し、冑を納め、誉田別命を合殿に奉祀したことに始まる社である。また、この時から祭礼に流鏑馬を奉納するようになった。ちなみに、当社の流鏑馬は、源頼義父子の徳を讃えて「平国流鏑馬」とよばれ、昭和33年に県指定無形文化財となっている。その後、八幡宮については別に社殿が設けられ、建久3年には源頼朝が秩父重忠に命じて社殿を檜皮葺きにすると共に神領を寄附し、新たに息長足姫命を配祀した。永享年間には足利持氏が再建、大永7年消失の後、享禄元年に毛呂参河守顕繁が、寛永10年には徳川家光が再建し、これ以後、慶応3年に至るまで将軍家に山鳥の尾羽箭を毎年献上することを例とした。
このように、二社並立で明治を迎えたが、明治4年11月に大字小谷田の阿夫利神社を八幡宮へ合祀し、その後、八幡宮を当社に合祀し、ここに現在のような姿になった。明治6年3月、旧毛呂本郷の総鎮守であったことから郷社となる。また、明治40年3月に長瀬字向井の村社白山神社を合祀し、同年4月には更に、毛呂本郷字宿の無格社稲荷神社、長瀬字田向の無格社愛宕神社、岩井字古宮の無格社古宮神社(『風土記稿』に「社伝詳ならず、思ふに前久保八幡社のありし所ならんと云」と、当八幡社の旧地と伝えている)、岩井字伊勢原の無格社神明社及び水尾神社、同字鈿女野の無格社鈿女神社、同字古宮の無格社山神社、小田谷字専福の無格社菅原神社、同字烏嶽無格社愛宕神社、同境内社八坂神社を合祀している。
祀職は紫藤家が室町時代から累代奉祀して今に至っている。なお、境内からは銅鏡や永享年間造営時の布目瓦も出土している。

埼玉の神社



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