出雲伊波比神社
いずもいわいじんじゃ


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【出雲伊波比神社のやぶさめ】

〜流鏑馬の里をめぐる〜
出雲伊波比神社のやぶさめ
出雲伊波比神社のやぶさめは、平安時代の後期、源頼義・義家親子が奥州平定のため当杜にて戟勝祈願願を行い、凱旋途中の康平6年(1063)、再び立ち寄り、流鏑馬を奉納したのが起源と伝えられています。
毎年11月3日に行われる秋の流鏑馬は、毛呂山の晩秋の風物詩として親しまれています。
三つの当番区の三人の小中学生たちが乗り子となり、騎射を行う全国的にも珍しい民俗行事です、乗り子は約十日間、稽古、精進を重ね本番に臨みます。
流鏑馬は、午前の朝的、午後の夕的の二回行7われ、特に夕的では、勇壮な騎射のほか、ムチ、ノロシ、扇子といった馬上芸が次々と披露され、凛々しい少年騎士たちの姿を見ることが出来ます。
平成22年9月
毛呂山町教育委員会

社頭掲示板



【出雲伊波比神社】

埼玉県入間郡毛呂山町岩井2915鎮座
祭神 大名牟遅神、天穂日命、品陀和気命(応神天皇)、息長帯比売命他
出雲を中心として国土経営、農業・産業・文化を興され、全ての災を取り除かれた大名牟遅神、天孫のために出雲の国土を移譲する。いわゆる国譲りに奔走され大名牟遅神が杵築宮(出雲大社)に入られたのちそのみたまを齋い祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で家内安全、病気平癒、開運招福、商売繁盛等の神としてあがめらる。
創祀 古く出雲臣が齋祀する社であった、景行天皇53年(123年)に倭建命が東征凱旋の際侍臣武日命(大伴武日)に命じて社殿創設、神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ、現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名 出雲伊波比の神名初見は宝亀3年(772年)の太政官符においてで当社はそれによってその論拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝7年(755年)には官幣に預る「預幣社」となり延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社とよばれるゆえんがそこにある。
本殿建築
流造一間社で屋根波檜皮葺型式、大永8年(享禄元年)(1528年)9月25日毛呂三河守藤原朝臣顕繁再建によるもので埼玉県下最古の神社建築である。大永8年・宝暦12年(1762年)の棟札二面とともに国指定重要文化財。
昭和32〜33年文部省は解体修理をおこなった。
例祭 11月3日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。920年の歴史をもつ、
昭和61年8月
宮司 紫藤啓治 撰文並書

社頭掲示板



臥龍山公園之碑

渋沢栄一署名
出雲伊波比神社が建つ臥龍山には、昭和3年(1928)に臥龍山の公園整備を記念し建立された石碑です。2mもある石碑に「臥龍山公園之碑」と力のこもった文字が刻まれ、碑面の左脇には、近代産業の発展に貢献した渋沢栄一による署名があります。
臥龍山公園は、山の斜面にツツジを植え、山を彩る景勝地とする整備が行われ、当時の渋沢栄一と親交のあった毛呂村の議員であった栗原勘次郎、後に毛呂村最後の村長を務めた堀江泰助が世話人に名を連ねています。'
建碑の寄付者には、「毛呂本郷」、「前久保敬明会」、「小田谷有志」、「毛呂村青年団」など、数多くの人々の名が刻まれ、地域の人々の協力によって建立されたことがわかります。
戦時中は、出征する仲間とともに臥龍山公園のツツジを眺め、戦地に赴いたという話もあり、当時の臥龍山公園が、ふるさとの風景として人々に親しまれていました。
毛呂山町産業振興課商工観光係

社頭掲示板



出雲伊波比神社

埼玉県入間郡毛呂山町。
旧郷社。祭神は大名牟遅神・天穂日命・須勢理比売命ほか。もと飛来明神・毛呂明神と称し、俗に明神様と呼ぶ。現本殿は享禄元年(1528)の造営にかかるといい重要文化財。例祭11月3日。当社を延喜式内社にあてるについては、入間市宮寺の出雲祝神社など異説を存する。

神社辞典



出雲伊波比神社

出雲は伊豆毛と訓べし、伊波比は假字也、〇祭神素戔鳴尊、(地名記)○北野郷小手指原物部天神社内に在す、(同上)例祭月日、旧地廃亡して後爰に祀るか、〇当國横見郡伊波比神社もあり、
日本紀神代巻上、一書曰、天穂日命、此出雲臣武蔵國造等遠祖也と見え、姓氏録云、入間宿禰も此神之後とあれば、当社恐らくは天穂日命の裔を祭れる、所謂氏神なδべきに、此辺の同称三社、ことごとに祭神の違へるは、中古よりの謬ならんとは思へど、其証いまだ見ず、猶よく考ふべし、

神社覈録



郷社 出雲伊波比神社

祭神 大名牟遅神
合祀 須勢理比売命 息長足姫命 天穗日命
本社は一に飛来明神と称し、旧称は毛呂明神と號せり、創立年代詳ならすと雖も、社伝、景行天皇の御宇、日本武尊の創立に係り、次いで成務天皇の御宇武蔵国造兄多毛比命、先跡に就いて崇敬の誠を致す、爾来歴朝の御崇敬厚かりしと称す、御神体は「比比羅木矛及御樋代壹箇上段斜に対座、御樋代二箇下段相双鎮座す」と社記に見えたり、社記当社を以て延喜式内出雲伊波比神社と称すと雖も、学者多く、出雲伊波比神社に物部天神の合殿云々と称す、是非詳ならす、建久年間源頼朝社殿を再営し神領を寄進し、後ち幕府修営の社と為る、爾来国主地頭の崇敬厚く、寛永10年徳川氏修営を加へ神領を寄進し、以て永く祭祀の料とせられしか、明治6年3月郷社に列す、22年内務省より保存資金百圓下賜せらる、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神庫、御饌所、神樂殿、齋殿、社務所、観祭殿等あり、内本殿は享禄元年9月、毛呂河内守顕繁の再建に係り、寛永10年、徳川幕府修営を加へて銅瓦とせるものなり、境内は8880坪(官有地第一種)郷の中央に位せる一丘陵たり、称して臥龍山とす、蓋し山形に依る、老樹亭々として天に参し、しかも眺望に富み、東、筑波山、西、秩父の群峯を仰ぐ、蓋し眺望快活四時遊覧の勝地たり、当社宝物としては、神功皇后尊像一躯(建久3年毛呂季綱の寄附)を始め鎧冑、古字経、其他材木寄進状、鐘証文あり、鐘証文、新編武藏風土記稿に見ゆ、小田原北条氏の寄する所なり、
「依天下之御弓箭達、当社之鐘御借用に候、速可有進上候、御世上御静謐之上、被鋳立可有御寄附間、為先此証文、其時節、可被遂披露旨、被仰出者也、仍如件
天正16年戊子正月5日
茂呂大明神」

明治神社誌料






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