氷川女体神社
ひかわにょたいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】多氣比売神社 武蔵国 足立郡鎮座

   【現社名】氷川女体神社
   【住所】埼玉県さいたま市緑区宮本2−17−1
       北緯35度53分12秒,東経139度41分36秒
   【祭神】奇稻田姫命 (配祀)三穗津姫命 大己貴命
   【例祭】10月8日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「女体神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

大宮・氷川神社を男体とし、当社を女体宮とする。
崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える。
鳥居前の用水路を渡り、長さ65mの御幸道があり、磐船祭祭祀遺跡がある。
池の中に丸い島状の祭祀遺跡。


由緒

三室氷川女體神社 浦和市宮本鎮座。当社は崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。主祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穂津姫命を配祀している。当社の御手洗瀬である見沼を囲み大宮氷川神社(男體社)、大宮中川の中山神社(簸王子社)とともに三社深い関係にあり「三室」を伝えてきた。古代、女神を祀ることや社殿が東方に向いているなど、その創立の由緒を偲ばせている。中世以来、武門の崇敬を集めており、これらに所縁のある宝物も多い。徳川家康から拝領五十石を寄せられ、また徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。古来からの御船遊神事は見沼干拓後、磐船祭として行なわれ、その遺跡が現存している。また、暖地性植物が繁茂する社叢は、天然記念物であり、故郷の森にも指定されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




氷川女体神社

所在地 浦和市宮本二丁目
 氷川女体神社は、県内屈指の古社で大宮氷川神社とともに武蔵国一宮といわれてきた。社伝では、崇神天皇の時につくられたと伝えられている。
 祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穗津姫命が合祀されている。
 大宮の氷川神社(男体社)、大宮市中川の中山神社(簸王子社)とともに見沼とは深い関係にあり、祭礼の「御船祭」は見沼の御上で行われていた。しかし、享保12年(1727)に見沼が干拓され、これに代わって出島で「磐船祭」が行われるようになった。
 この氷川女体神社には鎌倉、室町時代の社宝が多く、三鱗文兵庫鎖太刀(国認定重要美術品)、牡丹文瓶子(県指定有形文化財)、大般若波羅蜜多経(同)、神輿(同)は特に著名である。
 江戸時代には社領五〇石が寄進されており、現本殿は徳川家綱によって再建された。
 また、境内の社叢は市指定天然記念物であるとともに県のふるさとの森として保護されている。

社頭掲示板



浦和市指定史跡

氷川女体神社磐船祭祀遺跡
指定年月日 昭和54年3月28日  氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭でした。しかし、享保12年(1727)の見沼干拓によりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここにその祭祀を移して行うことになりました。それが磐船祭です。実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間ですが、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわめて重要なものです。この遺跡は保存状態も良く、また、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡としての価値が高いといえます。
 面積 3971u  祭場(四本竹跡) 径30m  御幸道 長さ65m  なお、昭和57年度に、復原整備事業を実施しました。

社頭掲示板



氷川女体神社

竜神の棲む神の沼・見沼
かつての越谷街道(国道463号線)から見沼たんぼの中を一直線に延びる農道を走ると、左手にケヤキ、モチノキ、シラカシなどの植物に覆われた杜が見えてくる。これが氷川女体神社の杜である。
見沼たんぼを望む台地の先端に位置するため、社は今にも見沼たんぼにころげ落ちそうである。
さいたま市緑区宮本二丁目、これが氷川女体神社の現在の所在地である。以前は大字三室字宮本と呼ばれていた場所である。三室(みむろ)は本来、御室であった。三室といい、宮本といい、まさに神社の鎮座する場所の地名としてはこれ以上のものはない。神社のことが地名になってしまうほど、この神社と三室との結び付きは深かったのである。
見沼たんぼにしてもしかりである。今でこそほとんどたんぼのなくなってしまったこの低地は、江戸時代に干拓される以前は、見沼という沼であった。この見沼は即ち「みぬま」=神沼、御沼であり、この神社の御手洗瀬だったわけである。
とすると、現在でこそ奇稲田姫命・大己貴命、三穂津姫命を祭神としているが、本来はこの見沼に対する信仰から発生したものと考えられる。つまりこの見沼は神社成立の根本にかかわる重要な位置を占めているのである。
そういえば、見沼には古くから竜の伝説が多く伝わっている。いずれの話も、その内容は竜に仮託して、見沼に対して畏敬の念を抱かせるのを目的としたものである。しかもそこに、竜神が登場してくることにより、見沼を農業に不可欠な水源としてとらえていることがわかる。
ここまでくると、どうやら神社成立の姿が見えてきたようだ。つまり、見沼周辺に定住して農耕を営む人々が、農耕に不可欠な水を得る場所として見沼を神聖視し、水の神たる女神を祀ったもの、それが、氷川女体神社のもとの姿といえよう。

見沼のまわりの三つの神社
かつての見沼のまわりには、氷川女体神社のほかにも古い神社が二つある。市内の氷川神社と中山神社である(●氷川神社 さいたま市大宮区高鼻町に鎮座。旧官幣大社。
祭神は素盞鳴尊、稲田姫尊、大己貴尊。
●中山神社 さいたま市見沼区中川に鎮座。氷王子社とも呼ばれた。朱印社領一五石は天正19年に与えられた。)。このうち氷川神社はかつての武蔵国を中心に数多く分布する氷川神社の総本社とされ、県内では最も知られた神社である。そのため以前は、古代の『延喜式』神名帳に記載され、武蔵国二宮ともされた氷川神社はこの大宮氷川神社だとされてきた(●「延喜式」式とは古代における律令や格の施行細則で平安時代の延喜5年に編纂が開始されたので「延喜式」と呼ばれる。この巻九と一〇は一般に神名帳と呼ばれ、当時中央の神祇官に認められた神社3231座、2861所の神名が記されている。)。
しかし最近では、氷川女体神社や中山神社の存在も念頭に入れて、見沼を見下ろす台地上に立地するこの三社で一つの氷川神社を形成していたと考えるのが一般的になってきている。事実氷川女体神社の拝殿には武蔵国一宮の扁額もかかっており、氷川女体神社に残る数多くの文化財もその説の信憑性を高めている。つまり、信濃の諏訪大社が、諏訪湖をとりまく複数の神社で一つの諏訪大社を形成しているのと同様に、氷川神社も、大宮氷川神社を男体社、中山神社を王子社、氷川女体神社を女体社として一体のものとし、諏訪湖にあたるのが見沼だとされている。
それでは、古代の氷川神社はどのような姿で登場してくるのであろうか。神社近くの大熊家に、江戸時代に書かれた『武州一宮女躰宮御由緒書』がある。ここでは神社の勧請を崇神天皇の時代としているが、この点については史実かどうかは断定しがたい。ただ、神社には古墳時代の作ともいわれる三つの鉄鈴があり、(●鉄鈴 三つあり、由緒などは不明。鉄製で、鍛造、中央で継いである。最も大きいものは直径約一〇センチ。)この神社が古くから存在したであろうことを示している。
『延喜式』神名帳の武蔵国の項に氷川神社の名前がある。しかも「名神大(●名神大社 古代に宮中で神祇官が行う名神祭で祀られる神社。「延喜式」では1185座が名神大社になっている。月次は六月と一二月の月次祭に、新嘗は一一月の新嘗祭に特別に神祇官から幣帛を受けたことを示している。)、月次新嘗」の注があり、神社としては最高の待遇を受けていた。これより先、奈良時代の天平神護2年(766)には封戸(●封戸 古代の律令制における俸禄。一定数の戸を与え、その戸からの田租の半分と調・庸を収入として与えるというもの。)二戸を賜っている。 このような史料に見える古代の氷川神社は、決して三社で形成されているものではない。『延喜式』には一座(●座 神の数をいう時に使う。四座は四神のこと。)として記されており、諏訪大社が二座と明記されているのとは大きな違いである。これをどのように考えたらよいのであろうか。
答えはそう簡単にはでそうもない。
ただ、氷川女体神社が古くからの由緒を持つ神社であることに変わりはない。

性尊、大般若経を書写す
「大般若波羅蜜多経」、(●大般若波羅蜜多経 仏典中最大の六〇〇巻からなり、日本では奈良時代以降、国家安寧の祈願のためしばしば読誦、書写されてきた。)これがいわゆる「大般若経」の正式名称である。その大般若経が氷川女体神社にもある。巻一から巻四〇〇までは、川越仙波の無量寿寺(●無量寿寺 川越仙波にあった関東の天台宗の中心となった談所。星野山と号す。中世に尊海が再興し、有力子院に北院(喜多院)、中院(仏地院)、南院(廃寺)があった。)の僧性尊(●僧性尊 その人物像は明らかではないが、巻一一一によると建武2年に67歳であったことが知られ、文永6年(1269)生まれということになる。)が、正慶2年(1333)から暦応元年(1338)にかけて写経したものである。この四〇〇巻をすべて横につなぐと3km以上になるといわれている。
(●巻一一九の跋文「右志者為当所地主平人々殿中安穏子孫繁昌所従春属牛馬犬(六力)畜生益万倍心中祈願成就円満一切衆生皆成仏道雖両眼苦暗書写之処也」とある。)
その行数たるや気の遠くなる数である。
それを一人で写経したというのである。しかも「両眼苦暗」の障害をしょってである。
性尊にそこまでさせた熱意とは何であったろうか。その答えとなるものが、巻二九や巻三九三などに残されている。
それによると、当所地主である河越氏一族の繁栄を祈願したものであることがわかる。河越氏は武蔵武士の名門で、鎌倉時代には武蔵国留守所総検校職を務めるなど鎌倉御家人として重きをなしていた。
しかし鎌倉幕府の滅亡とその後の南北朝の動乱の中で、河越氏の勢力は急速に衰えていった。そんな中で、この大般若経は河越氏のために書写されているのである。性尊は河越氏とどんな関係にあったのであろうか。残念ながら、性尊の出自は明らかにできない。
この性尊の大般若経のもう一つの特徴は、書としての美しさである。南北朝期の書跡としての価値を備えている。室町時代になってこの大般若経の後半の二〇〇巻が仙波玉林坊(●玉林坊 川越仙波中院を形成していた坊の一つ。)の良藝らによって書写されたのであるが、彼らの書は後に「カカル悪筆無用之書事也」という悪評を受けている。性尊という比べる相手が悪かったのであろうか、比べられた良藝も気の毒である。
この大般若経は折本で、一〇巻ずつ請箱(●請箱 横板に「永禄五年癸亥五月十二日、三室文殊寺常住本願見音」という墨書銘がある。)に入れられ、さらに二〇〇巻ずつ三つの経櫃に納められるようになっている。
いずれも当時のもので、ともに県の有形文化財に指定されている。

北条氏奉納の三鱗文兵庫鎖太刀
春日大社、熱田神宮、厳島神社、丹生都比売神社、談山神社、大山祇神社、そしてわが氷川女体神社。これらは兵庫鎖太刀が奉納された神社である。日本を代表するそうそうたる神社に混じって氷川女体神社も含まれていることは驚きである。
帯執りが針金を編んだ鎖でできている兵庫鎖太刀は、平安時代以降作られたが、あまりにも豪壮なため一般の使用が禁止され、専ら社寺奉納用となったものである。
さて、氷川女体神社のそれは、拵えの全長90.4cmで、刀身は鉄の延板、全身に鎌倉幕府執権北条家の家紋である三鱗文を刻んでいる。三鱗文兵庫鎖太刀と称される所以である。鎌倉時代後期の作で、神社では北条泰時の奉納と伝えている。かつては国の重要美術品に認定され、現在は県指定文化財となっている。
北条氏が奉納した三鱗文兵庫鎖太刀の例としては三島大社のものがあるが(現在は東京国立博物館所蔵)、当時の北条氏の目には、氷川女体神社と三島大社は同様の格式を持つ神社に映ったのであろう。
見沼での神祀り 御船祭と四本竹
氷川女体神社の最も重要な神事は、「御船祭」である。『新編武蔵風土記稿』には、「例祭は9月8日、8月14日にて、其内9月8日は隔年の舟祭りなり、此祭、古へは社地より廿四五町程隔てて大なる沼あり、其内に神輿を置て舟に祭れり」と記されている。隔年の9月8日、神社から神輿を乗せた御座船が見沼を南下し、御旅所で瓶子に入れた神酒を沼の主に供献するというもので、江戸時代の享保年間に見沼が干拓されるまで続けられた。
現在神社には、この御船祭に使われた神輿と瓶子がそのままの形で残っている。
神輿(県指定文化財)は桃山時代の作といわれ、県内ではもちろん、国内でも有数の古さを誇っている。高さ約1mで、朱や黒の漆がかけられ、正面には鳥居を配し、周囲には高欄をめぐらしている。
担ぐための「轅」はなく、御座船に乗せられて渡御したことを証明している。
一方、瓶子(県指定文化財)は高さ32〜3cmのものが二口あり、まったく同じ形をしている。美濃地方における一五世紀頃の作といわれ、画花文で牡丹文、唐草文などが彫られ、褐紬がかかっている。伝世品であり、中国の元や明で栄えた青花(染付)(●青花 つゆくさの花のこと。その花弁からとれる青色の液を布地にすり染めする。日本では古くから行われたが、次第に廃れ、染付けの下絵にする紙に用いられた。)に用いられた牡丹唐草文を忠実に表現しているという点で、日本の中世の陶磁器を代表する工芸品である。
東京国立博物館に展示されているのもそのためである。
さて、この「御船祭」について、近年重要な発見があった。「四本竹遺跡」の発掘調査である。この調査により、「御船祭」の御旅所とされた四本竹の地(●四本竹遺跡 さいたま市緑区大字下山口新田字四本竹に所在する遺跡で、芝川見沼第一調節池建設に伴い平成元年から同3年まで発掘調査が行われた。)から、地中に突き刺したままの七九〇本の竹、寛永通宝などの古銭九七枚などが出土したのである。まさにそこが、「御船祭」祭祀の中心の場所だったのである。神輿、瓶子、そしておびただしい数の祭竹(●祭竹 七九〇本の竹が出土したことから、一度の祭祀について四本の竹が使われたとすると、最低でもここで167回祭祀が行われた計算になる。隔年で行われたことからするとその起源は少なくとも中世まで遡ることが可能である。この発掘調査以前にも多くの竹が出土していることから、竹の数はさらに多かったはずであり、その起源は古代にまで遡る可能性もある。
)の存在は、この神社がいかに見沼とかかわってきたかの歴史の生き証人である。
下剋上の戦乱の中で
戦国時代の争乱は、当然浦和の地もまきこんだ。小田原に本拠を置く後北条氏は、二代氏綱の時代になると北関東への進出を企て、この地もその勢力下となった
制札三室之郷
右於此在所軍勢甲乙人等濫妨狼籍之事堅停止之畢至干違犯之輩者可処罪科状
如件
大永4年8月26日(氏綱花押)
神社に伝わるこの文書がそのことをよく物語っている。この文書は後北条氏が県内に出した最も古い文書であり、神社保護のため軍勢の狼籍を禁止したものである。
北進を企てる後北条氏と、それを阻止しようと南下する長尾景虎(上杉謙信)の勢力がぶつかり、この地で後北条氏に敵対していた岩付の太田資正も、その戦乱にまきこまれた。そんな時永禄4年(1561)から6年にかけて太田資正はあの大般若経を川越中院の僧奇藝に真読させている。
・永禄四辛酉武州大乱為静謐、中院真読
・辛酉、岩付為安穏真読、奄藝、癸亥第二度畢
・景虎氏康朝敵、酉ノ年大乱勝敗未決、
為天下一統真読
・氏康西上野張陣、越国衆上州細井楯籠
勝敗相半也、傍真読如此
・亥ノ年正月松山籠城、敵氏康味方太田
・太田美濃守一門為繁昌真読奇藝
大般若経の識語にはその当時の戦況の生々しさとともに、真読の理由も記されている。奇藝は岩付太田氏の安穏を願いつつ、あの膨大な大般若経を巻によっては二度も真読したのである。めったにしない真読をさせたこの戦乱とは、想像以上のものだったのかもしれない。
それから一〇年、太田氏は後北条氏と姻戚関係を結び、この地は後北条氏の手に落ちた。元亀3年(1572)後北条氏は次のような印判状を出し、神社の保護を図っている。
一虎之御印判無之而竹木勢取事
一神領不可有異儀、并諸役者可為如先
規証文、若違犯之族有之者、為先証
文可捧目安事
以上
右定所如件
元亀三年十月廿一日
海保入道
三室
女躰宮神主

五〇石の朱印社領
天正18年(1590)7月、豊臣秀吉により後北条氏は滅亡し、ようやく近世が始まる。江戸城に入った徳川家康はその翌年、各地の由緒ある寺社に領地を与え、権力基盤の確立を図った。この時に領地を与えられたのは旧浦和では六寺社で、氷川女体神社にはこの六寺社のうちで最高の五〇石が与えられている。
寄進 簸河明神
武蔵国足立郡三室郷内五拾石事
右如先規令寄附之詑弥守此旨抽武運長久之精誠殊可専祭祀之状如件
天正十九年 十一月日 大納言源朝臣(花押)
これが、この時氷川女体神社に与えられた寄進状である。ここには注意すべきことが三点記されている。まず第一は、「先規の如く」とあることから、この時の寄進がそれ以前の社領を安堵する形で行われていること、第二は、「簸河明神」というそれまではまったく見られない社名に変化したこと、第三は、この文書の形式が折紙ではなく、竪紙に官位、姓、花押をしたためているということである。
この寄進状は、当時氷川女体神社の置かれた立場を如実に物語ってくれる。そういえば神社には、家康奉納と伝える高さ12cmほどの鋳銅の馬も残っている。
寄進状とともに徳川家から贈られたものであろうか。
徳川家康から与えられた社領はもともと三室村の内に五〇石あったが、寛永6年(1639)に見沼溜井が造成されたことにより二〇石が水没してしまい、その替地として附島村に与えられた。

四代将軍徳川家綱本殿造営
現在の氷川女体神社本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗られている。これに拝殿が相の間で結ばれており、形式的には権現造りに近い建造物である。現存する大型棟札には、「武蔵国一宮簸河女躰大明神社、征夷大将軍源朝臣家綱公御再興阿部朝臣忠秋奉、寛文七丁未六月十二日御遷座、神主武笠宮内丞豊雄」とあり、四代将軍徳川家綱が忍城主阿部忠秋に命じて社殿を造営、寛文7年(1667)に竣工したことが知られる。これが今に残る本殿である。
この社殿造営のことは『徳川実紀』(●『徳川実紀」 江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書。幕末の嘉永2年成立。第一〇代将軍家治まで記されている。)にも記されている。寛文6年6月17日条には「武州一宮は阿部豊後守忠秋(中略)(●阿部忠秋武蔵国忍藩八万石の藩主。長く老中を務め、将軍家光・家綱を補佐した。)奉りて修理すべき旨仰出され、一宮女躰修理料金三百両は、その神主にさづけらる」とあり、この時大宮の氷川神社も同時に造営(●大宮氷川神社の造営 その時の棟札は存在しないが、「大宮市史」には写しとして、「上棟一宮足立郡氷川大明神社寛文七年丁未三月吉辰征夷大将軍正二位右大臣従四位下阿部豊後守忠秋奉行」と記されている。)されたらしい。その後、寛文7年10月3日には、武州一宮造営の成功により阿部忠秋の家士らに時服や羽織を賜っている。
江戸時代、氷川女体神社はこの将軍の造営した社殿を維持するためしばしば修理(●社殿の修理 享保、寛延、宝暦、安永、文政年間などに巨費を投じて行われている。
宝暦12年には寺社奉行に金五〇〇〇両の借用を願い出ている。)を行い、そのための費用を江戸湯島天神などでの富籤興行(●富籤興行 ある年には富籤を七〇〇〇枚売り、一等を一〇〇両、二等を一〇両、三等を五両とするよう願い出ている。)で捻出している。貞享5年(1688)から元禄2年(1689)にかけては、金一七五両と銀六匁余が使われて修復されている。
『江戸名所図会』の挿絵を見ると、江戸時代の氷川女体神社の本殿はこけら葺き(●こけら葺き 木材を薄く細長く削り取ったものをこけらといい、こけらで屋根を葺く方法。)で覆屋がかけられ、拝殿はかや葺きだった。屋根は改変されてしまったものの、神社の努力により将軍造営の社殿は、今もその気高さを失ってはいない。

旧神主家の人びと
神社に、柄は木製、鉾先が金銅の板を縫い合わせた鉾が二本ある。片方は176cm、もう片方が183cmで、短いほうには飾りの円板(●円板 このほかに、「九月七日」という円板もあったようであるが、今はない。)がついていることから、飾鉾とも呼ばれる。この円板には「正応六年大歳癸巳」「佐伯弘」と刻まれており、神主の佐伯氏が正応6年(1293)にこの鉾を奉納したことが知られる。
佐伯とは氷川女体神社の旧神主家武笠氏の名のっていた姓である。
江戸時代になって、将軍徳川家綱が本殿を再興した時、その実現に奔走したのが神主武笠宮内丞豊雄である。豊雄は神忠無双の人だったといわれ、死後は「心涼院殿豊雄霊社」という神号が与えられた。豊雄の次の神主武笠嘉隆は従五位下(●従五位下 古代では少納言『上国の国守に相当する位で、神主家の格式の高さが窺われる。)に叙せられ、丹後守に任じられている。
そして、年頭などに際しては、江戸城白書院で将軍への拝謁が許されていた。
さて、ここで江戸時代の神道学者橘三喜(●橘三喜 寛永12年肥前国平戸に生まれ、橘神道という一派をおこし、諸国の一宮を訪ね歩いた。『一宮巡詣記』『中臣祓集説』、『秋津真言葉』などの著作を残している。)について触れておきたい。三喜は元禄16年(1703)に69歳で没しているが、実はこの三喜の墓が、神社近くの武笠神主家墓地内に残っている。「一樹霊神」と刻まれた墓碑がそれである。
先に登場した神主豊雄や嘉隆の師であり、彼らと交遊もしたであろう著名な神道家橘三喜は、今もひっそりとそこに眠っている。
江戸時代の絵馬師武笠松渓も、氷川女体神社神主家から出た人で、中尾神社、文殊寺、氷川神社(川口市柳崎)に絵馬を残している。いずれも、大型で、大胆な画風である。
山田の中の 一本足の案山子
天気のよいのに 蓑笠着けて
朝から晩まで ただ立ちどおし
歩けないのか 山田の案山子
これは、有名な尋常小学唱歌「案山子」の一節であるが、この唱歌を作詞したのが武笠三(●武笠三 明治4年に北足立郡長武竺幸美の長男として生まれ、地元の三室小学校を経て東京帝国大学国文科に入学、埼玉県第一中学校(現浦和高校)で教鞭をとった後、明治41年から大正3年まで文部省で国定教科書の編纂を担当した。)という人物である。もちろんこの人も氷川女体神社神主家の出身である。幼少の頃見たであろう黄金に輝く見沼たんぼの稲穂と案山子の風景。そんな風景を、武笠三は数十年後の唱歌の世界にみごと蘇らせたのである。

みな月の名越しの祓えする人は千年の命のぶと言うなり
7月31日の午後に、境内で名越しの祓え(市指定無形民俗文化財)(●名越しの祓え 6月と12月の晦日に行われる大祓えのうち、特に6月に行うものを夏越祓(名越祓)と称する。)が行われる。江戸時代の文久3年(1863)の『年中於保恵』にすでにそのことが記されるほどの占い伝統を持っており、地元では「輪くぐり」「大祓え」と呼ぶのがひとがた一般的である。大祓詞奏上のあと、人形流し、輪くぐり、直会、奉告祭と続く。
人形流しは見沼代用水西縁の神橋の上で、神職・役員以下氏子たちが、あらかじめ息を吹きかけて自分の罪けがれをうつした人形を川面に流す。輪くぐりでは、社頭の鳥居に取り付けられたマコモの輪(●マコモの輪 マコモを輪状にし、社頭の鳥居に取り付ける。輪の大きさは、約3m。地元では「茅の輪」とはいわず、ただ「輪」という。)を、和歌を詠みながら「8字形」に左、右、左とくぐる。一連の行事次第や祓えの行事歌(●祓えの行事歌 「みな月の名越しの祓えする人は千年の命のぶと言うなり」などの和歌を計6回朗詠する。)など、全体に古い要素を残す民俗信仰の行事である。

氷川女体神社の文化財
●県指定文化財〈有形〉
氷川女体神社神輿 一基 桃山時代
三鱗文兵庫鎖太刀 一口 鎌倉時代(国認定重要美術品)
牡丹文瓶子 二口 室町時代
紙本墨書大般若波羅蜜多経 五三九巻
付、経櫃 三口 請箱 三三口
南北朝時代〜室町時代
●市指定文化財
〈有形〉
氷川女体神社社殿 一棟 江戸時代
氷川女体神社古社宝類 一括
 古鈴 三箇
 鉾形祭具 二口
 鉄鏃 三本
 木造鳥魚形祭具 四躯
 木造男神像 一躯
 二枚胴具足 一具
 鋳銅馬 一躯
神明宮扁額 一面 江戸時代
北条氏綱制札 一通 室町時代
北条氏印判状 一通 室町時代
氷川女体神社社領寄進状及び朱印状 一二通 江戸時代
〈無形民俗〉
氷川女体神社の名越しの祓え
〈史跡〉
氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡
〈天然記念物〉
氷川女体神社社叢

神社発行案内書



氷川女体神社

この電神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座します。
かって広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女体神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である電神様を祭る祭祠、『御船祭』を執り行ってまいりました。享保12年(1727)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、「見沼田んぼ」となってからこのお祭りは『磐船祭』として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は14世紀から行われていたとも推定されます。
世界最古の閘門式運河ともいわれる見沼通船堀など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心としてさいたま市内に点在ずる数多くの竜神伝説もその一つと言えます。
見沼代用水と見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と見沼に関わる地域はほぼさいたま市全域に及んでいます。
さいたま竜神まつり会は『文化と歴史を活かした誇りのもてるまちづくり』を目的として平成13年(2001)5月に約50m巨大な昇天電を製作し『竜神まつり』を開催致しました。
さいた竜電神まつり会

社頭掲示板



氷川女体神社の文化財

氷川女体神社は、見沼低地を見おろす台地上にあリ、武蔵国一宮と称されてさた古社である。古くから支配者の尊崇があつく、中世を中心にそれらに関する文化財も多い。
鎌倉時代金工品の優品として三鱗文兵庫鎖太刀がある。帯執りが針金で編んだ鎮となっている太刀を兵庫鎖太刀と呼び、多く寺社奉納に使われた。この太刀も刀身は鉄の延板で奉納用として作られたことが知られる。全面に三鱗文が施されている。社伝では北条泰時の奉納と伝える。古社宝頬のうち飾鉾には正応6年(1293)、佐伯弘の刻銘がある。
紙本墨書大般若波羅蜜多経は、本来六百巻からなる経典であり、そのうち初めの四百巻は、正慶2年(元弘3年−1333)から暦応元年(1338)にかけて、憎性尊が河越氏一挨繁栄のために写経し、二百巻は、川越中院の僧らによって補写された。戦国時代に岩付城主太田氏一族繁栄のため中院の□芸がこれを真読しており、その識語は注目されている。なお、経櫃三合、請箱三十三口は付指定。
牡丹紋瓶子一対二口、十五世紀美濃地方の作とされ、高花文で、中国の染付〔青花)の文様をよく写している。御船祭祭其の一つ。神輿も御船祭に用いられたもので轅がない。
漆塗り、金銅金具付きである。桃山次代の作とされるすぐれた漆工芸品である。
古代ないし中世に賊する文化財として、古社宝中、古鈴三箇、鉄鏃三本、鳥・魚形祭具四躯、男神像一躯、二枚胴具足一具、鋳銅馬一躯などがある。
後北条氏の文書として大永4年(1524)の北条氏綱制札(三室之郷あて)と元亀3年(1572)の北条氏印判状(女体宮神主あて)がある。天正19年(1591)、徳川家康は、この神社に五十石の社領を寄進し、歴代将軍も継目安堵の朱印状を発した。
なお、本殿は、寛文6年(1666)に徳川家綱(四代将軍)が再興奉行として忍域主阿部忠秋が携わった。
(指定文化財一覧)
県指定有形文化財 工芸品 三鱗文兵庫鎖太刀 一口 昭和47・3・28
(国指定重要美術品) 昭和23・4・27認定)
県指定有形文化財 工芸品 氷川女体神社神輿 一基 昭和47・3・28
県指定有形文化財 工芸品 牡丹文瓶子 一対(二口) 昭和48・3・9
県指定有形文化財 典籍 紙本墨書大般若波羅蜜多経 539巻 昭和47・3・28
県指定有形文化財 建造物 氷川女体神社社殿 一棟 昭和51・3・30
県指定有形文化財 工芸品 氷川女体神社古社宝類 一括 昭和44・5・21
県指定有形文化財 書籍 神明宮扁額 他公建ち達書 一面 昭和63・3・28
県指定有形文化財 古文書 北条氏綱 制札(大永4年8月26日) 一通
             北条氏印判状 一通  昭和36・3・31
県指定有形文化財 古文書 氷川女体神社社領寄進及び朱印状 十二通 昭和54・3・28
県指定無形民俗文化財 氷川女体神社の名越祓え 昭和60・3・28
県指定史跡 氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡 昭和54・3・29
県指定天然記念物 氷川女体神社社叢 昭和40・7・1
埼玉県教育委員会
氷川女体神社

社頭掲示板



氷川女体神社

浦和市指定史跡
永川女体神社磐船祭祭祀遺跡
指定年月日 昭和54年3月28日
氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭でした。しかし、享保17年(1727)の見沼干拓によりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここにその祭祀を移して行うことになりました。それが磐船祭です。実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間ですが、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわめて重要なものです。この遺跡は保存状態も良く、また、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡としての価値が高いといえます。
面積 3971平方m
祭場(四本竹跡) 径30m
御幸道 長さ65m
なお、昭和57年度に 復元整備事業を実施した
昭和59年10月
氷川女体神社
浦和市教育委員会

社頭掲示板



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