氷川女体神社
ひかわにょたいじんじゃ


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【由緒】

氷川女体神社<浦和市宮本2−17−1(三室字宮本)
当社は旧見沼を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12Kuという広大なものであった。この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女体神、すなわち女神であった。
創建の由緒は明和4年(1767)に神主武笠大学の記した『武州一宮女躰宮御由緒書』(大熊家文書)によると、「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また『神社明細帳』控には、見沼近くにある当社と現在の大宮市高鼻鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社(氷王子社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。
主祭神は、奇稲田姫命・大己貴命・三穂津姫命である。
中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀は北条泰時の奉納と伝える。
また無量寿村(川越)の性尊らは、正慶2年(1333)以降、川越氏繁栄のため大般若経を書写している。更に永禄4年(1561)から同6年(1563)にかけては、小田原北条氏の支配を逃れて当社に来住した仙波中院(川越)「芸が庇護者である岩槻太田氏の戦勝を祈願して大般若経の真読を行っている(社蔵大般若経・識語)。しかし、元亀3年(1572)北条氏は「女体宮神社」あてに禁制(社蔵文書)を発給していることから、このころ当社の支配は岩槻太田氏から北条氏に移ったのであろう。天正19年(1591)11月、徳川家康は三室郷の内五〇石の社領を寄進した。この時初めて判物に「簸川明神」と記され、以後「女体」の社名に「氷川」を加えるようになる(社蔵文書)。寛文7年(1667)6月、社殿再興棟札によれば、徳川家綱が忍城主阿部忠秋を奉行として本殿を再興した。この時の棟札には「武蔵国一宮簸河女躰大明神」とあり、武蔵国一宮を冠している。
社領経営は、神主武笠家・社人内田家・社僧天台宗文珠寺・神領名主などにより行われた。武笠家は佐伯氏の流れをくみ、豊雄(豊良)の代の延宝4年(1676)に京都吉田家より神道裁許状(武笠神主家文書)を受けている。また、足立郡神職組織触頭の氷川神社の触下であり、「諸国一宮巡詣記」を記した神道学者橘三喜の門弟でもある。
社領運営の基盤は、五〇石の社領と鎮座地そばに広がる見沼の漁業権である(武蔵一宮簸川女体明神諸事控・大熊家文書)。社領はもともと三室村にあったが、元禄2年(1689)の簸川明神社領三室村之内朱印地改野帳(武笠神主家文書)では、三室村内には三〇石余となっている。年月日未詳の三室村寺社方朱印地並除地書上覚(関野家文書)には、付島村の内に二〇石余と記されており、これは寛永6年(1629)の見沼溜井造成により水没した三室村内二〇石分の替地が付島村の内に与えられたものと考えられる。万治2年(1659)の見沼漁労請負一札(武笠神主家文書)によると、見沼の漁労を請け負った網主は、幕府に魚を運上するとともに、一年に鯉七〇匹、鮒一〇〇匹を神餞として当社に奉納する旨を誓っている。その後、見沼の新田開発が進められたことにより、同新田内に除地として一〇町歩余が祭祀料として与えられている。(武笠神主家文書)。
祭祀は御船祭と称し、隔年の9月8日に見沼に坐す女神に対して行われた。まず神主は垢離取りと呼ばれる潔斎を荒川で行う。当日は、神輿船に鉾を立て神輿を載せて見沼を渡り、餅・小麦御飯・神酒を献じて祭祀を行った。しかし、古来より続けられてきた御船祭は、享保12年(1727)見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし(「祭礼相続願書」武笠神主家文書)、同14年(1729)9月から斎行された(女体簸河明神諸事控)。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹」の地名が残るが、近年の発掘調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。
現在当社には、この祭祀に使用した鉾・牡丹文瓶子・神輿が所蔵されている。鉾には「正応6年大歳癸巳」「9月8日」「佐伯祝」と刻まれる銅製円板が付いている。牡丹文瓶子(県指定文化財)は室町期、神輿(県指定文化財)は安土桃山期の作と推定されている。更に社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和56年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。

埼玉の神社



【女體社】

社領五十石の御朱印は天正19年賜ふ所、例祭は9月8日8月14日にて、其内9月8日は隔年の舟祭りなり、此祭古へは社地より廿四五町程隔てて大なる沼あり、其内に神輿を置て舟に祭れり、其沼の内を享保13年伊澤惣兵衛承りて水田となし、當地へは350坪を除地となせしより、今も其神領はかはらず、しかせし後は社地の前新田の中五十間許築出せし地にて、彼祭をば行へり、然るに今此地をもて、神職及び土人等は當國の一ノ宮と稱すれど、一ノ宮は大宮氷川明神なることは古書にも載せ、疑ふべしともおもはれず、況や當社にはさせる舊記もなく、又文殊院所蔵の大般若経其の餘の古文書、且つ正保の國圖等、悉く女體権現とのせたれば、一宮ならんと云は附會なること論をまたず。
内陣。祭神は三體にして中央は稲田姫、左は三穂津姫命、右は大己貴命なり、其外神寶をここに収めり、圖上に出。
神楽堂。傍に寶蔵二所あり、これより神楽堂に續けり。
鳥居。額に武蔵國一宮とあり、これ附會せしより記せしなるべし、これより石階を下りし所、三沼代用水流あり、ここより望めば左右山丘なれど、其内に眼も及ばぬまで水田うちひらけ、姑く畫中の觀をなせり。
末社。神明社、住吉明神社、石上神社、天神松尾合社。
神主武笠外記。佐伯姓なり、先祖は天正十八年岩槻へ籠城して、討死せりと云、されど系圖記録等もなければ詳ならず、北條家よりの文書二通を蔵せり、其文は後にのす、又社家二人内田數馬、武笠常右衛門と云、其内常右衛門は村の里正もかぬ。
制札
三室之郷
右於此在所、軍勢甲乙人等、濫妨狼藉之事、堅停止之畢、至于違犯輩者、可處罪科状如件
大永4年8月26日
一虎之御印判無之而竹木剪取事
一神領不可有異儀、?諸役者可爲如先規證文、若違犯之族有之者、爲先證文可捧目安事
以上
元亀3年10月28日
海保入道奉之
三室女體宮神主

新編武蔵風土記稿



【氷川女體神社社殿一棟】

氷川女體神社は、武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は、武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(県指定有形文化財)は鎌倉幕府執権北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付太田氏や小田原北条氏の庇護を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として五〇石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文7年(1667)銘の棟札等により、本殿は江戸幕府四代将軍徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。
社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、権現造りの形式となっています。本殿は三間社流造で、正面三間(3.56m)、側面二間(2.11m)、さらに向拝がついています。幣殿は両下造で、正目一間(3.56m)、側面二間(3.63m)です。拝殿は入母屋造で、正面五間(9.46m)、側面二間(4.5m)です。さらに向拝がつき、その向拝には千鳥破風及び唐破風がついています。
平成23年・24年に社殿修理が行われ、屋根が?葺きの時期があったことがわかりました。
この社殿は、埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成19年に埼玉県の有形文化財に指定されました

社頭掲示板



郷社 氷川女体神社

祭神 稻田姫命
合祀 三穂津姫命 大己貴命
元と単に氷川神社と称せしを、中右浮屠の輩、今の号に改めしと、創立年代詳ならずといへども、社伝に拠れば、崇神天皇の御宇の創建にして、大宮の氷川神社、中川の氷川神社、及び当社の三社を合して永川神社と称せしを、世の変遷に伴ひ、いつしか各別社となれるものなりと、御神体は「三体ニシテ、中央ハ稲田姫、左ハ三穂津姫命、右ハ大己貴命」と新編武藏風土記に見えたり、古来上下の帰依厚く、往昔三千五百貫の圭田ありと称せられ、社宝に持統天皇御寄附の大般若経六百巻其他空海の心経、北条泰時の太刀、正応6年の上杉朝興の制札、大永4年の小田原北條家の文書等頗る多し、徳川幕府に至りて益々神威掲焉として、天正19年来代々社領五十石、除地百石の寄進あり、且つ毎歳正月、神主登城、大廣間にて将軍に謁し、代替毎に時服を拝受するを以て例とせり、故に諸国大社十九ケ社の一に数へられ、寺社奉行直菅の神社たり、明治6年4月郷社に列せらる。
寛文7年、徳川家綱の再興に係る、棟札あり、文に云く、
「上棟、武蔵国一宮氷川女体大明神、征夷大將軍源朝臣家綱公御再興、阿部朝臣忠秋奉、寛文7年丁未6月12日御遷座、神主武笠宮内丞佐伯豊雄、」
後ち貞享、享保、寛延に修営ありたり、境内は3750坪(官有地第一種)及土地林600坪、古松老槻、数百株鬱然として森を為す、新編武蔵風土記に、社頭の風景を賛して云く、
「石階ヲ下リシ所、三沼代用水流アリ、ココヨリ望メバ、左右山丘ナレドモ、其内ニ眼モ及バヌマデ、水田ウチヒラケ、姑ラク書中ノ看ヲナセリ、」 と、元と当社頭前、方一里除の御手洗池ありしが、享保年間埋めて新田と為し、今僅かに一泓の池水を存するのみなりと。
当社は古来、当國一ノ宮と称し、寛文の棟札及鳥居の額等に武藏国の一宮と記せり、然れども新編武藏風土記稿之を弁じて、付会説となせり、云く、 「神職及ビ土人等ハ、当国ノ一ノ宮卜称スレド、一ノ宮ハ、大宮宿氷川明神ナルコトハ古書ニモ載セ、疑フベシトモオモハレズ、況ヤ当社ニハ、サセル旧記モナク、又丈珠院所蔵ノ大般若経、其余ノ古文書、且ヅ正保ノ国図等、悉ク女体権現ト、ノセタレバ、一宮ナラント云ハ、付会ナルコト論ヲマタズ。」
社殿は本殿、幣殿、拝殿、玉垣、神門、神庫、社務所、石鳥居、木鳥居、水屋形、一ノ御橋二ノ御橋、石煙籠、敷基等を具備し、境内3051坪(官有地第一種)外に上地林二反歩を明治31年中境内に編入せらる。

明治神社誌料






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