調神社
つきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】調神社 武蔵国 足立郡鎮座

   【現社名】調神社
   【住所】埼玉県さいたま市浦和区岸町 3-17-25
       北緯35度51分13秒,東経139度39分20秒
   【祭神】天照大神 (配祀)豊宇気姫命 素盞嗚尊
       『惣国風土記七十七残欠』瀬織津比
       『武藏国式内社四十四座神社命附』調玉命
       『武藏国風土記稿』日の神・倉稲荷玉命
       『特撰神名牒』天照大神・宇賀御玉神

   【例祭】1月19日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】開化天皇乙酉3月奉幣の社として創建
       崇神天皇の勅使倭姫命が御倉を建てる
       宝亀2年(771)6月20日宮内少輔藤原常悠勅使奉幣
       延長5年(927)「延喜式」調神社
       建武3年(1335)覚遍法印は上州碓氷から調神社を遙拝
       延元2年(1337)尊氏復興
       貞和観応の頃(1350頃)兵火で焼失
       至徳2年(1385)佐々木持清は神殿を造営
       永禄13年(1570)神輿を作る
       天正18年(1580)小田原兵乱で焼失
       寛永8年(1613)神輿を作る
       慶安2年(1649)徳川家光社領寄進
       寛文9年(1669)三十六歌仙絵奉納
       享保18年(1733)本殿建立(旧本殿)
       安政5年(1858)社殿建立(現社殿)
       明冶6年(1873)郷
       明冶31年(1898)県社
       昭和45年(1970)社殿修復

   【関係氏族】調首
   【鎮座地】古来よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】正倉
   【祭祀】江戸時代は「調宮」と称していた
   【社殿】本殿権現造銅板葺
       拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社・四柱神社・天神社・金刀比羅神・浅間神社

第十代崇神天皇の勅命により伊勢神宮の斎主である倭姫命(やまとひめのみこと)が参向し、清らかなる地を選び神宮に献じる調物(みつぎもの)を納める倉を当地に建て、武蔵野の初穂米や調収納所として定めたと伝えられている。
 調宮(つきみや)とは調の宮(みつぎのみや)の事であり、諸国に屯倉が置かれた時、その跡に祀った社のことを一般に調宮と呼んだといわれている。
 現在の社殿には「鳥居」や「門」がない。これは倭姫命の頃に御倉から調物を清めるために社に搬入する妨げとなるために鳥居・門を取り払った事が起因となり、現代に至っているといわれている。また「狛犬」もない。狛犬のかわりに「ウサギ」が鎮座している。一説に「調(つき)」から「月の宮神社」と呼称され、「月待信仰」によるものから「ウサギ」であるといわれているが、定かではない。
 この正倉に集められた足立郡の「調」は東山道(現・中山道ルート)を通じて朝廷に送られていたが、宝亀2年(771)に武蔵国が東海道に編入されると、正倉の役目は終わっている。



由緒

当社は延喜式内の古社にして、古より朝廷及武門の崇敬篤く「調宮縁起」によれば、第9代開化天皇乙酉3月(1700年前)所祭奉幣の社として創建され、第10代崇神天皇の勅使倭姫命が当国高鼻郷の岸の清らかな岡を選び調物を納める御倉を建てられ、武蔵野(武蔵、上総、下総、上野、下野国即ち関東一円)の初穂米、調集納蒼運搬所と定められる。
延長5年左大臣菅原道眞参向、神社調ノ上延喜式内国祭として奉幣使来拝社と定められる(延喜の制国幣小社)寳亀2年辛亥6月20日(1200年前)宮内小輔従五位下中臣朝臣常恣勅使奉幣を賜う。(現在行われている例大祭の起源、明治初期の暦の改正により7月20日に改む)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




調神社

はじめに
浦和市郷土文化会会長 大関豊明
ここに浦和歴史文化叢書第四冊として、「調神社」を刊行するはこびとなりましたことは、喜びにたえません。調神社は、延喜式内社として、市内屈指の古社であります。明治の世には県社に列せられるなど格式の高い神社であります。また「つきのみや」、「酉の市」として市民に親しまれている神社でもあります。
この冊子では、調神社の歴史や文化財について解説が試みられておりますが、昨年市の教育委員会により、調神社の文化財の調査がなされました。本冊子にはその成果もとりいれることができました。
本冊子が広く活用され、郷土の歴史文化がより多くの方々にご理解いただけることを切に望みます。
最後に本冊子作成にあたり、ご協力を惜しまなかった調神社に対し、深甚なる感謝の意を表する次第であります。
1.式内社
つきのみや−親しまれた名前である。正式には調神社と書き、つきじんじゃと読む。祭神は、天照大御神と豊受比売命で、それに素盞鳴尊を合祀している。
その創建は古く、『調神社縁起』には、「崇神天皇之勅創」とあり、『新編武蔵風土記稿』には、「稚日本根子彦大日天皇乙酉三月所祭」つまり開化天皇の御代の創建ということが記されている。
古社を知る一つの手がかりとして『延喜式』という書物がある。これは平安時代の中頃に朝廷で作ったものであるが、それの神名帳に諸国の神社3132座の名が載せられている。ここに名を連ねている神社は「式内社」と呼ばれ、当然ながらそれ以前の創建ということになる。ところで武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)においては、そのような神社は44座ある。それらのうち足立郡は4座である。いま、『延喜式』からその部分を書き抜いてみよう。
足立郡四座  大一座 小三座
足立神社  氷川神社 名神大月次新嘗
調神社 多気比売神社
これによって調神社は、「式内社」として確実に存在していたことが知られるのである。なお、足立神社は大宮市植田谷本の足立神社、氷川神社は大宮市高鼻町の氷川神社、多気比売神社は桶川市篠津の多気比売神社に想定されているが、一部に異説もある。『大宮市史』では、これら四座と古代の郷の関係を次のように結びつけている。
足立神社   殖田郷
氷川神社   郡家郷
調神社    大里郷
多気比売神社 稲直郷
なお、調神社を大里郷にあてているが、大里郷という地名は、これも平安時代の中頃に中央で作られた『和名類聚抄』に記載されている郷名であり、足立郡七郷(堀津・殖田・稲直・郡家・大里・発戸・余戸)の一つで、調神社を中心とする浦和市南部の岸村付近、あるいは蕨、笹目、川口付近とみられている。前者の場合、もう一つ別の問題がある。それは中世に作られたとみられる『武蔵風土記』記載の郷の一つに大調郷というのがあることである。『新編武蔵風土記稿』には次のように記されている。
中古所唱合郷九
(中略)
大調郷 同書(風土記)ニ載セテ或ハ大都幾ト註ス、公穀三百九十三束三毛四囲田仮粟二百二十七丸ト記シ下ニ調神社ヲ繋ク、サレハ今ノ浦和宿ノ辺ナルヘシ、調神社今彼宿ノ隣村岸村ニアルコト前二記スカ如シ
これには大里郷はないので、古くから大里郷は大調郷の誤りであろうとされている。いずれにせよ大調郷があったとすれば、それは調神社とは切り離せないであろう。また大調は「おおつき」と読ませているところをみても、大きなつきのきつまりケヤキが茂っている土地であったことがほうふつとしてくる。
天保10年(1839)に調神社に参拝した平田篤胤は『調神社考証』に、「その祀る神は天照大御神と宇賀の御魂命との二座なりといふはさもありなむ、そは伊勢の大御神の末社に調の御倉の社といふありて祀る神を倉稲魂命とあるをおもふに、このやしろはそもいにしへ国々より伊勢の大神の御戸代の盛なりしほと、その御調のはつ穂をとりおさむる御倉なりしか後に社となりけむ」と記している。つまり、伊勢神宮に納める初穂を入れる倉庫から発展した神社だとしているわけである。鳥居のないことなどとあわせ、この説は今でもかなり広ぐ信じちれているが、証すべき史料はない。
2.興廃の歴史
中世の調神社は、まさに「興廃の歴史」という言葉が妥当であるといえるほど、焼失、復興を繰り返してきた。いま『調宮縁起』からその模様を書き出してみよう。もちろん証すべき史料がないので、すべてが史実か否かは知るすべがない。
延元2年(1337)2月5日、足利尊氏は、武州那賀郡広木吉原城主一色大興寺入道範行を奉行として調神社を復興し、社田五か村を寄進したという。これに先だち、尊氏の一族の覚遍法印(伊豆山密厳院に住す)は、尊氏の命により、上州碓氷から上州高崎の日宮とこの調宮(日と月を並べた)を遙拝し源氏繁栄を祈祷した。その結果、神威によりついに凶徒を破ったという。
なお、この頃、足利尊氏は足立郡を領有していた。建武2年(1335)の『比志島文書』に尊氏の所領が記されているが、その中に、
武蔵久良郡同国足立郡泰家
同国麻生郷時顕
などとある。また、後の写であり、史料的には問題があるが、大宮市の岩井家文書に次のようなものがある。
氷川社 武蔵国大調郷地頭職□□□事、右令寄進之状如件
建武□(3カ)2月20日(花押)(尊氏)
さきに述べた大調郷が出てくるが、この文面からすると、大調郷の地頭職を氷川社(大宮氷川神社)に寄進したことになる。
ついて、貞和・観応の頃(1350頃)、朝廷方の兵火で調神社は焼失、康暦2年(1380)、武州足立の将帥佐々木近江守持清は、調神社を崇敬し、至徳2年(1385)正月に神殿を造営し社田二か村を寄進したという。
そして天正18年(1580)、小田原兵乱に際しては、近在の寺社はことごとく災禍を罷り、神宝寺珍を失ったが、このとき調神社も焼失し、社宝を失い社田もまた自ずと荒廃したという。
3.月待供養と調神社
調神社は、室町時代以来、月待信仰とも関係をもっていた。「つきのみや」が「月宮」つまり月宮殿に擬せられたためであろう。
月待信仰が室町時代から盛んに行われていたことは、板石塔婆によっても知られるところであるが、浦和市内にはそれがまた特に多い。
月待信仰は月の出を待つ一種の民間信仰で、月宮殿におわすという月天子を頂き、これを拝むのである。月天子の本地仏は勢至菩薩であり、その縁日は23日で、その夜講が催されるのである。それで23夜講とか23夜様といわれるわけである。浦和市の太田窪にも「二十三夜」という地名が残っている。
さて、調神社も月宮殿にされるようになると、別当月山寺には勢至菩薩像が祀られていた。また社殿にも兎の彫刻が各所におさめられ、本来なら狛犬を置くべき神社の入口に、これにかわり兎像を一対置いている。兎は月宮殿の使姫である。
調神社があったために浦和近在が月待信仰が盛んになったのか、それとも盛んだったために、調神社も月待信仰の中に組み入れられてしまったのか、あるいは相乗作用があったのか明らかにし得ないが、この関係は重視しなければならない。ちなみに、浦和市内にある月待供養の板石塔婆は、十二基ほど確認されており、その数は県内のどの市町村よりも多い。
4.御朱印七石
慶安2年(1649)8月24日、徳川三代将軍家光から次のような社領寄進の朱印状が出された。
   武州足立郡岸村別当
(包紙)(張紙)「「大猷院様御朱印」月読社領月山寺」
武蔵国足立郡岸村月山寺
月読社領同村之内七石事
任先規寄附之訖全可収納并
社中山林竹木諸役等免除
如有来永不可有相違者也
慶安2年8月24日
(朱印) (印文「家光」)
月読社は、調神社のことである。また月山寺は、調神社の別当寺である。調神社領として、岸村の内において七石を寄附し、社中の山林竹木・諸役等を免除する旨が認められている。先規に任せとか有来のごとくとあるように、在来そのような形であったものを、正式に朱印状によって認めたわけである。以後歴代将軍もこれにならい、継目安堵の朱印状を出している。調神社には9通の朱印状が完存している。
徳川家康は、天正18年8月1日、江戸城に入り、翌年11月に由緒ある寺社に対しその所領を寄進した。その後三代家光は新たにこれに倍する寺社に対し、所領の寄進をする旨の朱印状を出した。調神社七石もその一つである。「式内社」でありながらなぜ家康の寄進が受けられなかったのであろうか。
『調宮縁起』には「東照神君御入城時、杳聞此神為源家代々依頼、雖見寄附田土山林郊野若干、社司断絶及数箇度、為田家所没経界今無知 其地図纔存、社領七石、境内山林百有余畝而已」とある。要するに、寄進しようとしでも宮司は何度も絶え、田家の境界もわからない。わずかに地図があり、それには社領七石と境内の山林が百有余畝とあっただけである。
さて、家光の朱印状にある「月読社」は明らかな誤りである。『調宮縁起』にも「其文謂月読尊者奏伝之訛誤而無有本拠矣」とある。しかし、いったん書かれた文字は、たとえ神社の名であろうと改められることはなく、継目安堵の朱印状にそのまま踏襲されていった。その後、神社側や村方から出される文書にも「月読明神」と書かれるようになった。
5.旧本殿と現社殿
調神社の社殿は、堂々たる権現造りである。これは江戸時代末期の安政年間の建立になるもので、この社殿の一代前の本殿が現在、境内社稲荷社の本殿として、社殿の東側にある。幸いにも棟札が残っており、享保18年(1733)の建立であることが知られる。
まず、この旧本殿(市指定)から説明しよう。旧本殿は、一間社流造りで、向拝は軒唐破風がつく。屋根はもと柿暮き(現、銅板葺き)。身舎は、間口1.80m、奥行き1.50m、これに奥行1.30mの向拝がつく。ケヤキ造りで、地覆上に建ち、柱上は出組みで、中備蟇股、妻飾りは虹梁大瓶束、その両脇には鯉の彫刻がおさめられている。身舎前面は、幣軸に朱漆塗の板唐戸をつけ、左右小脇に金箔押の竜の彫刻をつける。また、向拝や脇障子に兎の彫刻がみられ、いかにも調神社の建築らしい。建築そのものは大変すぐれたもので、江戸時代初期に作られた『匠明』という書物に出てくる木割と一致する。
このように旧本殿は、本格的な設計施工によるものといえる。棟札(半分を欠く)の最後に、「享保18年癸丑2月より11月成就之■」とある。
現社殿は、本殿・幣殿・拝殿を繋いだ、いわゆる権現造りで安政5年(1858)に竣工した建築である。規模も大きく、総ケヤキ造り、特に本殿には精緻な彫刻がおさめられている。
6.別当月山寺
神仏混淆時代に神社には社僧のいる別当寺があった。さきにふれたように調神社の別当寺は、月山寺であった。月山寺について、『新編武蔵風土記稿』には次のように記されている。
月山寺、新義真言宗浦和宿玉蔵院末也、本尊愛染ヲ安ス、開山詳ナラス、昔ハ福寿寺ニテ当社ヲ兼帯シ爰ニハ庵ヲ置テ守ラシメシヲ後年一寺トナシテ月山寺ト号スト云リ
江戸時代後期以後は、月山寺は玉蔵院が兼帯となっていた。
月山寺の場所は正確にはわからないが、玉蔵院所蔵の「月読月山寺修覆ニ付岸村浦和宿出入一件記也」という記録には、調神社の境内図がある。これによると、いまの境内地内南西隅のあたりにあったことが知られる。この記録は元文4年(1739)のものである。
本尊の愛染明王については、いま福寿寺あとと考えられる岸町不動尊に、一躯愛染明王坐像があるので、あるいはこの像がそれにあたるのかも知れない。また勢至菩薩立像は、玉蔵院に移され今日に至っている。明治23年に書かれた『明細帳御記入願』(埼玉県立文書館所蔵)によると、この勢至菩薩は「月山寺本尊」となっており、『新編武蔵風土記稿』の記載と異なる。
7.社宝
調神社には数々の社宝がある。それらのうち、指定文化財及びそれに類するものを記すことにしよう。
神輿鳳凰(市指定)
神輿の頂に装飾としてつけられる鳳凰で、鍍金した銅板で作られている。高さ48.5cm、翼の広がり36.5cmほどである。胴に頭、翼、脚、尾をつけており、翼はタガネで羽を刻んでいる。ごく質素なつくりであるが、それだけによく古風を伝えている。『短才見聞録』(王蔵院蔵)によれば、永禄13年(1570)の神輿を寛永8年(1631)に作り替えたとあるので、これは永禄神輿(室町時代)の鳳凰かも知れない。
調宮縁起(市指定)
巻子本で、たて28.8cm、長さ184.0cm。末尾に別低で「寛文8年(江戸時代) 9月日、玉蔵院現住法印寂堂(花押)誌焉」とあるか、この部分は本文と別字でしかも花押が写しと思われるので、本文が寂堂の筆か否かも明らかてない。寂堂の撰になるものてあることは確かてあろう。縁起には、創建から中世の興廃、徳川家の社領寄進等について記されている。
三十六歌仙絵(市指定)
金地扇面の三十六歌仙絵で半分の18面が残っている。各面幅41.0cmを数える。『短才見聞録』によれば、徳川将軍(家綱)の近習松平利正ら四名が、寛文9年(1669)8月に調神社に奉納したものである。字は奉納者の一人飯塚正重が書き、絵は奥絵師狩野常信、表絵師狩野益信、狩野氏信及び長谷川雪江という当時一流の御用絵師が描いたものである。
藤原元真
なつ草はしけりにけりな玉ほこの道ゆき人もむすふはかりに  (画益信)
大中臣能宣朝臣
干とせまてかきれる松もけふよりはきみに引れて万代やへん  (画雪江)
平兼盛
暮て行秋のかたみにをく物はわかもとゆひの霜にそありける  (画氏信)
清原元輔
をとなしの河とそつゐになかれいつるいはて物おもふ人の涙は  (画常信)
源宗于朝臣
常盤なる松の緑も春くれは今一しほのいろまさりけり  (画氏信)
坂上是則
みよし野の山のしら雪つもるらし古郷さむくなりまさる也
斎宮女御
琴のねに嶺の松風かよふらしいつれのをよりしらへそめけん  (画益信)
伊勢
三輪の山いかに待みんとしふともたつぬる人もあらしと思へは  (画雪江)
素性法師
みわたせは柳さくらをこきませてみやこそはるのにしきなりける  (画雪江)
中納言朝忠
逢事の絶てしなくは中なかに人をも身をもうらみさらまし
僧正遍昭
たらちねはかゝれとてしもむはたまの我くろかみはなてすやありけん  (画氏信)
藤原敏行朝臣
秋きぬとめにはさやかにみえねともかせの音にそおとろかれぬる  (画常信)
小野小町
色みえてうつろふものは世中の人の心の花にそありける  (画雪江)
三条院女蔵人左近
いはゝしの夜のちきりもたえぬへしあくるわひしきかつらきの神  (画雪江)
藤原興風
誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに  (画常信)
藤原清正
天津風布介為乃浦仁井留太都濃奈登加雲居丹帰左類遍喜
源重之
風をいたみ岩うつなみのをのれのみくたけてものをおもふころかな
壬生忠岑
在明のつれなくみえし別より暁はかりうき物はなし
朱印状
さきに記したように、徳川家光以来九通の朱印状が完存している。
一、慶安2年8月24日 徳川家光朱印状
一、貞享2年6月11日  徳川綱吉朱印状
一、享保3年7月11日  徳川吉宗朱印状
一、延享4年8月11日  徳川家重朱印状
一、宝暦12年8月11日 徳川家治朱印状
一、天明8年9月11日  徳川家斎朱印状
一、天保10年9月11日  徳川家慶朱印状
一、安政2年9月11日  徳川家定朱印状
一、万延元年9月11日  徳川家茂朱印状
扁額(市指定)
ケヤキ材の大きな額で、縦93.2cm、横57.1cm。剛荘な筆致で「調神社」と書かれ、金箔が押されている。裏面に「享和2年壬戌10月朔日戊辰書、左近衛権少将源定信」と刻んである。白河楽翁公松平定信の筆になるものである。
金幣
高さ109.5cmほどで、表に「月宮」、裏に「(アク=梵字)武州足立郡浦和領岸村、浦和施工板倉源次郎秀有、同町金子伊大夫」とある。
8.境内社
明治4年に書かれた引渡書(青山家文書)に、「本社末社并神器附属之品」として、次のように記されている。
一、摂社 弐社
   第六神
   稲荷大神
一、末社壱社 相殿 熊野大神
          石神井神
          稲荷大神
          蔵王大神
一、仝 壱社    御殿神社
現在、境内にある末社は、次のとおりてある。
(祭神)
稲荷神社  倉稲魂神外四柱
四柱神社  速玉之男命
      事解男命
      伊弉冊命
      石凝姥命
      日本武尊
      武甕槌神
天神社   菅原道真
金刀比羅神社 大物主命
浅間神社  木花開耶姫命
9.境内林
調神社の境内林は、ケヤキを主とする落葉広葉樹の古木林であり、市の天然記念物となっている。いちばんの巨木は、「日蓮上人駒つなぎのケヤキ」で知られるケヤキで、幹まわり7.8mを数える。そのほか幹まわり2.5m以上のケヤキ23本、同2.0m以上のムクノキ6本、それにイチヨウの巨木2本なとが代表的である。
明冶31年に書かれた「県社昇格願」には「周囲丈余ノ老杉欝然トノテ繁茂シ風致秀抜」とあり、スキの巨木もあったことが知られるが、いまは、スギは枯株をいくつか認めるにすぎない。
10.祭礼
調神社の祭礼には、次のようなものがある。
祭旦祭  1月1日     七五三祭 11月15日
節分祭  2月節分     秋祭   11月23日
春祭   4月3日     歳の市祭 12月12日
神幸祭  7月19日
大祓   6月30日    12月31日
例大祭  7月20日
例大祭は、古くは6月2日であった。これは宝亀2年(771)辛亥6月2日宮内少輔従五位下中臣朝臣常恣勅使と奉幣を賜わったことによる。明治初期の暦改正により7月20日となった。
11.調神社の七不思議
調神社の七不思議として古くから伝えられている事柄がある。それは次のとおりである。
一 鳥居がないこと
二 境内にマツがないこと
三 御手洗瀬の不思議
四 使姫の兎
五 日蓮上人駒繋ぎのケヤキ
六 蝿がいないこと
七 蚊がいないこと
鳥居がないことについては、古代に調物の倉庫であったとき、調物搬入の妨げになるので鳥居を取払ったためという。
マツがないことについては、姉神(天照大神)が弟神(素盞鳴尊)の帰りをここで待っていたところ、いくら待っても帰って来ないので、「まつは嫌い」といったことによるものと、初穂を運んで来た人の目をマツの葉でつついたため、これを取除いたことによるものとの、二つの説がある。
三の御手洗瀬については、飛地境内にあった「ひさご池」に魚を放つと、必らず片目になったという。
四の使兎は前に記したとおり、狛犬がなく兎像をおいている。
五の日蓮上人駒繋ぎのケヤキについては、神社南西角にある古木で、日蓮上人が佐渡に流される途中、ここを通りかかったとき、名主青山家の妻女が難産に苦しんでいたので、ケヤキに駒を繋ぎ、曼茶羅を掲げ安産の祈祷をするとまもなく楽々と男子を出産したという伝説が残っている。
六と七の蝿と蚊については、神様が嫌うのでいまだかつて蝿、蚊がいたためしはないという。
12。県社としての調神社
明治維新を契機に、神道は国威発揚のうえでますます重要な地位を占めていくようになっていくが、それに関連して廃仏毀釈、神仏分離の政策が行われ、神仏混淆は廃止となった。当然ながら別当寺であった月山寺も廃止となった。前にも記したように、勢至菩薩立像(月山寺本尊とされる調神社本地仏)は、玉蔵院境内の廃寺神主寺に移され、ここを二十三夜堂と呼ぶようになった。
このとき兎像なども玉蔵院境内に移された(兎像は戦後調神社に戻った)。
明治6年4月20日、調神社は、氷川女体神社(浦和市宮本2丁目)とともに22、3区の郷社に定められた。また、明治22年には、保存資金を内務省から下付されることになった。金百円也である。
北足立郡浦和町郷社調神社
其社保存資金ノ内へ金百円内務省ヨリ下附相成候条、此旨相達ス
明治22年11月1日
埼玉県吉田清英
この金は、社殿修繕等に費用を要するとき、この利金のうちで支弁するというもので、実際に使用するときは県に申し出る必要があった。金は中井銀行に寄託された。
神社地は官有地となっていたが、明治31年、官有地のうち調神社境内(反別一町一反五畝四歩)を公園からわけて設定された。同年9月14日、内務大臣板垣退助からその旨の指令があった。そして、同年12月13日、願いにより県社に昇格する旨、内務大臣侯爵西郷従道から通知があった。このようにして、調神社は県社としての格式をもつに至ったのである。
付録 調神社略年表
年      酉暦   ことから
崇神天皇       創建と伝えられる。
延長5年  927 「延喜式」に調神社の名がある。
建武3年 1335  足利尊氏の一族覚遍法印は上州碓氷から調神社を遙拝したという。
延元2年 1337  尊氏は一色範行を奉行として調神社を復興したという。
貞和観応の頃 1350頃 兵火で焼失したという。
至徳2年 1385  佐々木持清は神殿を造営し社田二か村を寄進したという。
永禄13年 1570  神輿を作る。
(元亀元年)
天正18年 1580  小田原兵乱で焼失。
寛永8年  1613  神輿を作る。
慶安2年  1649  徳川家光は月読社領として七石を寄進。
寛文8年  1668  『調宮縁起』できる。
寛文9年  1669  三十六歌仙絵奉納される。
享保18年 1733  本殿建立(旧本殿)
元文4年  1739  別当月山寺修復の件て、浦和宿・岸村争論。
享和2年  1802  松平定信が扁額を毫する。
天保10年  1839  平田篤胤が『調神社考証』をつくる。
安政5年  1858  社殿建立(現社殿)。
明冶6年  1873  郷社となる。
明治21年 1888 保存資金下付される。
明冶31年 1898 県社となる。
昭和45年 1970 社殿屋根葺替え(鎮座2125年祭記念大改修)。

浦和歴史文化叢書



調神社

由緒略記
当社は天照大御神、豊宇気姫命、素盞鳴尊の三柱を祭神とする延喜式内の古社にして古より朝廷及び武門の崇敬篤く、調宮縁起によれば第9代開化天皇乙酉3月所祭奉幣の社として創建され、第10代崇神天皇の勅命により神宮斎主倭姫命が参向此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ、武総野の初穂米調集納倉運搬所と定めらる。
倭姫の御伝により御倉より調物斎清のため当社に搬入する妨げとなる為 鳥居、門を取り払はれたる事が起因となし現今に至る。

社頭掲示板



市指定天然記念物

調神社の境内林
昭和45年3月10日指定
調神社は延喜式神名帳にみられる古社で、その創建は奈良時代以前とも考えられます。
1.2ヘクタールの神社境内は、ケヤキを主とする落葉広葉樹林となっでおり、これ等の大部分は樹齢数百年というもので、県内でも例をみない古境内林を構成しています。
調神社の近辺は、中世大調郷と称されていて、神社名や郷名とツキノキとの関係も断ちがたく、歴史的な意味を含めて、きわめて保存価値が高い境内林といえます。
また、この境内林は古くから注目されていて、文献にもみられます。
昭和58年12月
調神社
浦和市教育委員会

社頭掲示板



市指定有形文化財(建造物)

調神社旧本殿
昭和53年3月29日指定
調神社は「延喜式」にみられる古社です。
この建物は江戸時代中期の享保18年(1733)に調神社本殿として建立されたものです。
型式は一間社流造です。屋根はもとこけら葺きであったと思われます。規模は小さいが木割は「匠明」という書物に記されているものと一致し、本格的な設計のもとに建立された本殿といえます。また、各所にはめ込まれた彫刻も優れており、特にうさぎの彫刻は調神社と月待信仰の関係を知るうえで責重です。
なを、現社殿が建立された安政年間までこの本殿が調神社本殿として使われていました。
昭和53年10月
調神社
浦和市数育委員会

社頭掲示板



詳細ボタン


武蔵国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA