調神社
つきじんじゃ


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【由緒】

当社の鎮座する「浦和市岸町」の地名は、大河の流路の屈曲点、もしくは中洲だった所を示す浦曲(うらわ)と、その河岸であったことを示す岸であるといわれる。境内は現在、欅を中心とした落葉広葉樹であり、往古も社名を想起する「つきのき」つまり欅の大木が林立する杜であったことがうかがえる。恐らく古代祭祀は、この大河の望める地、そして欅の巨木がある森厳なる森の中で行われたのであろう。 『廷喜式』神名帳には、足立郡四座の内、「調神社」と載り、「つきのかみ」を奉斎する社であった。
この「つきのかみ」については諸説あり、「調」が大化の制における賦課、租・庸・調の「調」で、これを納めた御倉に祀られたのが「調神」であるとする説、『新撰姓氏録』にある調布の紡織集団である渡来系氏族「調連」一族が奉斎した神であるとする説、また、天保10年(1839)当社に参拝した平田篤胤が『調神社考証』で述べた祀る神は天照大御神と宇賀御魂命で、伊勢の神宮に奉献する初穂を収納するための御倉に祀られた神であるとする説などがある。
祭神は『江戸名所図会』には月読命とあるが、現在は天照皇大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊である。
「調宮縁起」(寛文8年・玉蔵院寂堂法印誌)によると、創建は崇神天皇の勅創とある。中世の動向については、建武3年(1336)足利尊氏の一族、伊豆山密厳院の覚遍法印は高崎の月宮と当社調宮を遥拝し、尊氏が両社を再建する。延元2年(1337)2月5日、武蔵国那賀郡広木吉原城主一色大興寺入道源範行を奉行として社頭を復興し神田五か村を寄進する。貞和・観応の乱により兵火にかかる。康暦2年(1380)正月、武蔵国足立郡の将、佐々木近江守源持清は同氏の氏神である近江国蒲生郡鎮座の沙々木大明神が調宮明神と同体であるとして社殿を造営し、神田二か村を寄進すると記している。
慶安2年(1649)3月24日、代官熊沢彦兵衛は寺社奉行に、社領七石は前々より別当月山寺が管理してきたところ、社内山林竹木等も除地であるため御朱印頂戴の旨を願い出ている(短才見聞録・玉蔵院文書)。これにより同年8月24日、徳川家光より社領七石安堵の朱印状(調神社文書)が発給された。
別当は、古くは真言宗福寿寺が兼帯していたが、いつのころか当社南東の一角に同寺は庵を構え、祭祀に当たっていた。その後、庵は一寺となり月山寺と号し、福寿寺に代わって別当となった。『短才見聞録』には、「月読本尊(当社神像)往昔兎乗御座候」とあり、この本地仏は勢至菩薩像であると載る。元来、勢至菩薩像は月天子の本尊であるから、当社の月読神(調を月に転じた)と共に月待信仰の対象とされたと考えられる。
文人墨客もこの月待・月読の神を知ってか数多く参詣している。中でも寛政3年(1791)4月11日、俳人小林一茶は深い森の中に鎮まる「月よみの官」に額突いたことを『紀行』(一茶全集第五巻)に書いている。また、旅を好んだ僧、津田大浄ほ文政2年(1819)『遊歴雑記』に「二十三夜の宮と称す(中略)社の造営善尽し、美尽し、内のかざり心々の奉納の品々夥しく、辺鄙の駅路にくらぶれば目を驚かせり」と、社頭の繁栄を記している。当時参詣者の書いた月読社、二十三夜の宮、また月山寺などの社寺名などからも、二十三夜の月待信仰は庶民にかなり流布していたと思われる。
造営は、享保18年(1733)に一間社流造りの本殿を建立している(社蔵棟札)。子の時、旧本殿は『短才見聞録』によると玉蔵院鎮守の山王権現宮本殿として移築している。次いで安政5年(1858)現在の総欅で豪壮な権現造りの社殿を建立した。翌年の「調神社社殿再建寄附額」によると、この造営には寄附者として浦和宿・岸村・白幡村・根岸村・辻村・別所村・針ケ谷村・玉蔵院・月山寺・武蔵一宮氷川神社社人入江若狭・杉山大隅などの名が見え、寄附総額は約1850両に及ぶ。なお、享保の造営の折の旧本殿は、境内社稲荷社の本殿となり、現在に至っている。
明治初年、神仏分離により月山寺は廃寺となり、本地勢至菩薩は玉蔵院に移された。明治6年郷社となり、同31年には県社に昇格した。
祀職は神仏分離後、青田彦七郎ー憲勝−英一と累代奉仕し、現在、吉田一則が宮司として社頭の隆昌に努めている。

埼玉の神社



【調神社】

社領七石を賜ふ、當社は「延喜式」神名帳に足立郡調神社と載る所なりと云、されど祭神等すべて傳ふる處詳ならず、按に「武蔵風土記」にも足立郡大調郷、或は大都幾調神社、神田六十束、二字田雅日本根子彦大日天皇、乙酉3月所祭瀬織津比当轣A有神部巫戸と載たるもの全く當社の事と見ゆ、されど此風土記は後人の擬書なる由言傳れば、正しとも言がたし、又土人の此邊の事跡を記せしものに、當社は日の神倉稲荷玉命の二座を祭る所にして、延元2年2月5日、那賀郡廣木村吉原の城主、色大興寺入道範行と云し人再興して、神田五邑を附せしなど載たれど、此一色範行と云もの他に所見なし、ことに延元の頃再興せしと云るも、式社のことをわきまへざる書ぶりなり、がたがたうけがたし、又云其後貞和観應の頃兵火にかかりて社頭破壊せしを、康暦年中佐々木近江守持清又再造せしが、それも両上杉戦争の地となり、次第に衰廃せしを小田原北條分国の時に再興ありしと記す、されどみな左證とすべきものなし、たとへ證すべきことありとも、是を以て式社の興廃を知るには足べからず、殊に別當寺にては、近き頃まで月輪を祀りし社とのみ傳へたれば、古を知らざるもの附会せしなるべし、調の字の訓月に同じければ、後世月待の宮として、又愚民の信を得んがためにかく唱へしなるべし、今を以て考ふるに、當社の外此郡中調神社の名残と覚しきもの更になし、目撃する所を以て古へを推には足らざれど、社地のさまいかにも神さび、数囲の樹木枯株などのとこせるを見れば、古社なる事は論なかるべし、今は社人も調の社といへば、恐らくは古へに復せしなるべし。
末社。
石神社。稲荷を合祀せし。
蔵王社。是も熊野を合殿とす。
稲荷社。
第六天社。
別當月山寺。
新義真言宗、浦和玉蔵院末也、本尊愛染を安ず、開山詳ならず、昔は福壽寺にて當社を兼帯し、爰には庵を置て守らしめしを、後年一寺となして月山寺と號すと云り。(

新編武蔵風土記稿



調神社

調は都岐と訓べしO祭神瀬織津姫命、(風土記)○中仙道浦和駅に在す、(地名記)例祭月日、○惣國風土記七十七残欠云、武蔵國足立郡調神社、神田六十束二字田、稚日本根子彦太日天皇乙酉
三月、所祭瀬織津比当轣A有神戸巫戸
社領

神社覈録






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