御井神社(奥宮)
みいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】御井神社 美濃国 各務郡鎮座
          (本社)御井神社
   【現社名】御井神社(奥宮)
   【住所】岐阜県各務原市三井山町
       北緯35度23分16秒、東経136度50分47秒
   【祭神】御井神 (配祀)津嶋神 保食神
   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】仲哀天皇9年御田が奉進
       天文元年(1532)現在地に遷宮
       元文3年(1738)正一位
       明治6年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が当初鎮座の地
        戦国時代現在地に遷

   【祭祀対象】湧水
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

美濃国守護の土岐氏が尾張に対抗して山頂に城廓を築いた時、御旅所であつた現在地に遷座した。
三井山の下には山を囲むようにして「三井池」があった。「三井池」は祭神が掘られた池と伝えられ、延喜式に「津長井」の池と称される。


御井神社奥宮

三井城址に残る曲輪の由来
三井城は、室町時代に防御条件(南面の木曾川、山稜の地形等)に恵まれた三井の山稜に三井郷の領主であつた三井弥一郎が在地支配の根拠として築いたものと言われれている。この三井城は戦国時代の始め尾張の織田信秀が東美濃政略にあたり1548年に攻め落され、その後約450年を経過した現在戦国時代の山城として構築が理解できる曲輪(城の区画)が長年の自然及び社会条件などに耐えながらほぼ原形を推察できる状態で現存している。(図参照)一方、土木工事(普請)に必要な土壌は東高山北側の原野から運び上げた採土地の跡地(図参照)として約3000平方米(三反)の湿地が残つていたと地元の古老から語り伝えられている。いまに比べると作業技術面などからも大変な労働条件であつたことが想像される。従つて曲輪はほとんど黒ボク土壌を用いたことが現状で確認できる。
現在目で見る曲輪から三井城構築に対し深い懐古の実感が生じ、ことに中世〜近代に及ぶ歴史時代を通じ木曾川の清流を境界とする美濃、尾張に関る戦国の郷土史料として極めて重要な存在であることが推察される。

社頭掲示板



三井山の歴史

三井山は、市の南西部に位置し海抜108.8mの山です。
三井山は、軍事上の重要な場所にあつたため、古くから砦が築かれて来ました。
古文献によりますと、三井山の最初の城主は土岐忠八郎であつたとか、土岐氏の家臣であつた三井弥市郎(弥一郎ともいう)が山頂に城を築いたとか記されています。
築城にあたつては、それまで山頂にあつた神社を山から下に遷座させました。
それが、三井町の御井神社と上中屋町の天神社(現在は、天神神社)です。
美濃国内で守護大名の土岐氏と守護代の斎藤氏の内乱が起きたとき、隣の尾張の国(愛知県)より織田信秀(信長の父親)が攻め込んできました。その時、三井山城は落城したとされています。
市街地の中に残された三井山は、周辺の住宅からの貴重な緑地景観になつています。
周囲にはほとんど山が無いため、山頂からは、各務原市周辺のようすや木曽川によつて造られた濃尾平野が一望でき、遠くは小牧山や名古屋の街並みまで眺ることができます。三井山の歴史を偲ぶとともに山頂からの展望をお楽しみ下さい。
各務原市

社頭掲示板



三井山城

■所在地:岐阜県各務原市三井山町  ■城郭様式:山城  ■別名:なし ■築城主:三井弥一郎?
■城主:三井氏 ■築城年代:室町時代 ■遺構:曲輪跡
■歴史
 最初の城主は土岐忠八郎であるとか、土岐氏の家臣で三井郷の領主でもあった三井弥市郎(三井弥一郎)が、室町時代に在地支配の根拠地として築城したなどといわれている。
 築城にあたっては、それまで山頂にあった神社を山麓に遷座させたという。それが、三井町の御井神社と上中屋町の天神社(現在の天神神社)であるといわれている。
 美濃国内で守護大名の土岐氏と守護代の斎藤氏の内乱が起きたときに、隣の尾張の国から織田信秀が天文17年(1548)に攻めこんで来た。この時に三井山城は落城、その後は廃城になったと考えられている。

http://www.geocities.jp/pappakun12/aruku/minokoku/miiyama/miiyamamemo.htm



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