飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村国氏の祖が、天之火明命と御子石凝老命を御祭神として創建した。 二座のうち一座は村中の山上(約20m)にあり、村国明神、白山大権現と称される。他は神社の東南200mの御旅所(当社)、御宝松と称されるところにある。 現在地は村国男依の墓所があった場所と伝わっている。 |
由緒 当神社は、飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村國氏の祖が、天之火明命と御子石凝老命を御祭神として創建された社であります。 弘文元年、壬申の乱が興り豪族村國男依氏は、大海人皇子の命を受け、いち早く農兵3000人を引きつれ、不破の関を守り、大津街道を攻め上がり、大海人皇子の連に大勝をもたらし、天武の世となり、村國男依氏は此の勲功で、封120戸、功田10町とかばね性、連(むらじ)を賜り、帝の新任あつく時の政権の座につきましたが、天武4年天命を全し、此の世を去る。 帝より外小柴の位を授り、子息村國連嶋主によって、此の社に村國連男依の命として祀られ、以来、村國の社と呼び、産土神として代々村國一族が守って参りました。 時代は村國氏から、重臣各牟氏に移り延久4年約910年前、各牟宿弥良遠の時代に山獄信仰が盛んになり承保3年(900年)前、各務宿弥良近によって白山大権現が合祀され守護神として農州一円の士豪は、戦勝を祈り大いにあがめ祀り爾来、鎌倉、室町、安土桃山と戦国の時代を守り祀りて江戸時代を経て現在に至る古き由緒ある神社であります。 延長年代、延喜式内郷社となっていおり村國神社弐座と記載されております、別の壱座は御旅所と申して、村國連男依命の墳墓の地と云われ現在は椋の大木を御神木として斎奉る。 境内裏山に古き時代を忍ぶ古墳群あり、此れを村國古墳公園として広く一般に公開し、憩いの場に使用している。 昭和48年岐阜県神社庁より金幣社に昇格さる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
村国神社 御祭神 天之火明命 石凝姥命 村国連男依命 白山大権現 当神社は、飛鳥時代この地一帯を治めていた村国の祖が天の火明命を御祭神として創建された社であります。 弘文元年の壬申の乱に、大海人皇子の命を受け、この地の豪族村国依男氏は大勝し、この勲功で、帝の信任厚く時の政権につきましたが、天武4年、天命を全うしこの世を去りました。 延久4年白山大権現が合祀され、濃州一円の士豪も、勝利の神と、大いにあがめ祀ったと伝えられている由緒ある神社であります。 山宮神社の石鳥居前(東新居字桧山田)にはかって三十六枚の御供田があった。 山宮の清流を引いて耕作された棚田であり「クタツタ」「ミズタ」と呼ばれるように田が鳥居のかみにあり、早くから開かれていたものである。明治40年水害の際に鳥居の付近にあった古い社家の屋敷跡はすべて押し流され、現在は落葉林、松林などに変化している。 山宮において明治以前は厳しい物忌みが年三回行われ、神主・社家・社人などが参籠し、この期間は氏子も忌みごもり。謹慎していたと伝えられている。 御供田からの収穫した米二俵をもって祭りの供物を作っていたと言われている。 浅間神社は、木花咲耶姫命を祀る甲斐の一宮で、垂仁天皇の時にこの地に勧請し、その後貞観七年(665)に現地に移されたと伝えられるもので。勧請地であるこの地には摂社として山宮神社が鎮座する。 この本殿は、一間社隅木入春日造檜皮葺きの室町時代の建築である。 社頭掲示板 |