式内物部神社と伊奈波神社に関しては大きく2説ある。 式内物部神社=伊奈波神社説(A説)と式内物部神社は伊奈波神社に合祀されたとする説(B説)である。 A説では式撰当時に従四位下の伊奈波神社が脱漏するなど考へられないとし、当初には伊奈波坐物部神社又は物部伊奈波大神などと称されたが後に伊奈波神社と称されたとし、これとは別に式外の「物部神社」があり、それが混同したする。 B説では、二社は本来別社で物部神社は岩戸に伊奈波神社は丸山に祀られていたが、戦国時代物部神社が井之口谷(現在地)に遷され、天文8年(1539)、齋藤道三が稲葉山城を築城し、居館を築いたため、伊奈波神社を現在地に遷座したとする。 物部神社の旧社地を厚見郡岩戸村(現岐阜市長森岩戸町)の岩屋観音とも、現在の岩戸八幡神社(明治初年岩戸村の氏神として海津郡より勧請)の境内とする説もある。 |
由緒 当社の祭神・主神は、五十瓊敷入彦命(垂仁天皇の第一皇子に坐す)、配祀神に淳熨斗媛命(主神の妃君に坐す)、日葉酢媛命(主神の母君に坐す)、彦多都彦命(主神の外祖父に坐す)、物部十千根命(主神の功臣に坐す)を奉斎する。主神は、英邁勇武に坐し頑愚強暴良民を悩ます東夷を征して教化を布き、又地方の産業開発には特に意を用いて濃、尾、摂、河、泉、和の広い地域に亘りて池溝を通じて水利を図り、農業を奨励して民生の安定、福利増進に尽し給うた。又鍛(かぬち)河上を喚して剣一千口を作り大和国石上神宮に納めて有事に備え国土の治安維持に任じ給うた。最近神徳を慕って土建、交通、水利、ダム関係の参拝者が非常に多い。御鎮座は、景行天皇14年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せしめ給うたのが始まりで、今から約一九〇〇年以前のことである。降って天文8年斎藤秀龍(道三)稲葉山を居城とするに当り現社地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列っせられ、社頭の殷賑は年と共に加わりつつある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
伊奈波神社 御祭神の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)は、垂仁天皇第一皇子にして当地を始め広い地域に直りて池溝を作り、農耕社会の基礎を築かれ人々の生活に安定をもたらしたことから、岐阜の総産土神、又諸願成就の神として親しまれ崇敬されている。御鎮座が1900年以上も前に遡る古社である。 景行天皇14年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せしめ給うたのが始まりで今から約1900年以前のことである。降って天文8年斎藤秀龍(道三)稲葉山を居城とするに当り現社地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列っせられ、社頭の殷賑は年と共に加わりつつある。 公式HP |
伊奈波神社 岐阜市指定重要有形民俗文化財 山車四台 安宅車 昭和33年11月13日指定 蛭子車 昭和54年3月19日指定 清影車 昭和54年3月19日指定 踊車 昭和54年3月19日指定 安宅車はかって車之町「今の本町五丁目)に所属した山車である。 大唐破風造りの屋根を持ち、上中下段の三段形式で、中台が屋台先になった、「名古屋形」の山車である。能狂言「安宅」の人形を飾る。 製作されたのは江戸末期で、各工といわれた諏訪和四郎富昌の作と思われる。 蛭子車はかって金屋町に所属した山車で、安宅車と同形の「名古屋形」である。蛭子に因んだ人形を持つ。やや大振りで精緻さに欠けるが、かえって堂々とした印象を与える。手法・形態等から見て四台中最古と思われる。 清影車はかって川原(湊町・玉井町・元浜町)に所属した山車で、漆塗装が全くない総素木造りの山車である。形状や細部の手法から、大正時代に製作されたと推定される。 踊車は屋根及び中段屋台先がなく、上段床上四周に手すりが付けられている。囃し方、踊り手が昇降しやすいよう工夫されている。 四台とも、4月4日の岐阜祭の際には市内を引かれる。 伊奈波神社の文化財はこのほかに、 太刀 銘景依造 が国重要文化財に、 石造狛大 木造獅子頭 美濃国第三宮因幡社本縁起 か県重要文化財に指定されている。 昭和61年12月 岐阜市教育委員会 社頭掲示板 |