伊奈波神社
いなばじんじゃ


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【由緒】

伊奈波神社について
先ずお祀りされている神様は、「五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)」と申し上げ、第十一代垂仁天皇の長男で、第十二代景行天皇の兄にあたり、古事記、日本書紀にもそのご事蹟が記載され、父垂仁天皇から弓矢を賜り武事をおさめ、また、勅命によって河内、大和、摂津、美濃など諸国に開拓された池溝の数は、実に800に及び、このため諸国の産業は勃興し、農事は豊かになって天下は泰平であったと記している。更に茅渟の川上宮にて劔1千口を作り、これを石上神宮に納めて有事に備えられた。今でいえば内政、土木、軍事などあらゆる面で活躍されたといえる。
薨去の翌年(景行天皇14年)命のご偉徳を偲び稲葉山(金華山)の地(丸山)に鎮斎申しあげたのが始まりで、それ以来1900年余りの長きに亘り、「心のふるさと」として親しまれている。天文8年(1539)斎藤道三が稲葉山城を居城とするにあたり、現在の地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列せられる。
我々の祖先は揖斐・長良・木曽の三大川に恵まれ水の恩恵に浴したものの一方では、洪水に悩まされ洪水から守り稔り豊かな土地にする事が土地を治める者の最大の務めであり、「水を制する者は天下を制す」と諺があるように、水を制するには金を以て当てるというのが陰陽五行の信仰であり、この地方は特に金、水に関する地名も多く伊奈波神社は水を防ぐ信仰の神社でもあった。近年神徳を慕って家内安全、商売繁盛、初宮詣、七五三詣、安産、交通安全、土建、水利などの参拝が多い。
○古縁起について
当社には、神社の由緒・御祭神等について書かれた巻物が現存し、岐阜県の重要文化財に指定されている「美濃国第三宮因幡社本縁起事」、写本「美濃国第三宮因幡社本縁起事」をはじめ、「濃州厚見郡因幡神縁起」、「美濃国因幡大菩薩本縁起之事」の四巻の古縁起巻物がある。
「美濃国第三宮因幡社本縁起事」は、延文四年(1359)九月に卜部兼前によって書かれている。写本は文明四年(1472)に書き写された。
現在、本来の山の総称を稲葉山(因幡山とも書く)といいますが、金華山とは稲葉山に対する別名であり、織田信長は稲葉山から金華山に変えてはおりません。
なお、この四巻を製本し、当社宮司東道人の古縁起についての解説と岐阜市歴史博物館学芸員筧真理子先生が翻刻した仮名書本「美濃国因幡大菩薩本縁起之事」が掲載された「伊奈波神社縁起巻物」を出版しております。詳しくは神社まで。

公式HP



【文化財】

重要文化財(国指定)太刀 銘景依造
岐阜県指定重要文化財石造狛犬
獅子頭
美濃国第三宮因幡社本縁起
岐阜市指定有形民俗文化財山車


【伊奈波神社】

当社の祭神・主神は、五十瓊敷入彦命(垂仁天皇の第一皇子に坐す)、配祀神に淳熨斗媛命(主神の妃君に坐す)、日葉酢媛命(主神の母君に坐す)、彦多都彦命(主神の外祖父に坐す)、物部十千根命(主神の功臣に坐す)を奉斎する。主神は、英邁勇武に坐し頑愚強暴良民を悩ます東夷を征して教化を布き、又地方の産業開発には特に意を用いて濃、尾、摂、河、泉、和の広い地域に亘りて池溝を通じて水利を図り、農業を奨励して民生の安定、福利増進に尽し給うた。又鍛(かぬち)河上を喚して剣1000口を作り大和国石上神宮に納めて有事に備え国土の治安維持に任じ給うた。最近神徳を慕って土建、交通、水利、ダム関係の参拝者が非常に多い。御鎮座は、景行天皇14年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せしめ給うたのが始まりで、今から約1900年以前のことである。降って天文八年斎藤秀龍(道三)稲葉山を居城とするに当り現社地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列っせられ、社頭の殷賑は年と共に加わりつつある。

岐阜県神社庁



伊奈波神社

いなばじんじや 岐阜市伊奈波通。
旧国幣小社(現、別表神社)。五十瓊敷入彦命・淳熨斗媛命・日葉酢媛命・彦多都彦命・物部十千根命を祀る。当社の創祀は、景行天皇の御代、東夷の教化、地方の開拓に大功を立てた五十瓊敷入彦命を、稲葉山の西北の地である椿原に、鎮祭したのに始まると伝えられている。また壬申の乱の時、天武天皇が戦勝を祈願された後、厚見郡一円を神領と定め充てられたともいう。当社のことが初めて国史に見えるのは、『続日本後紀』で承和12年(845)7月16日に无位より従五位下が授けられている。
『三代実録』には、貞観11年(869)12月5日に従五位上の伊奈波神に正五位下が授けられたことが見え、元慶4年(880)2月19日、従四位下が授けられている。
のち『美濃国神名帳』に、「正一位伊奈波大明神」と記されている。社伝によれば正一位の陞叙は、亀山天皇の弘長元年(1161)文永4年(1267)には、「正一位因幡大神」の神額を賜ったという。正平14年(1359)卜部兼前当社縁起を勘録。天文8年(1539)齊藤道三、稲葉山を居城にするにあたり、社殿を現社地に遷座、この時、物部十千根命を合祀した。以後城地の総鎮守として、織田氏・徳川氏の篤い崇敬をうけた。明治6年(1873)県社。同24年濃尾震災のため炎上したが、まもなく再興され、昭和14年国幣小社に列した。また当社は、古来美濃国三の宮として、広く上下の崇敬を集めて来た。例祭4月4、5日。当社の例祭は、一般には岐阜まつりとして親しまれ、神幸祭等賑やかである。

神社辞典



物部神杜

物部は毛乃々倍と訓べし○祭神五十瓊敷入彦命、淳熨斗姫命、日葉酢姫命、十千根命、(社説)○岐阜稻葉山に在す、古今因幡明神と称す、○日本紀、垂仁天皇15年8月壬午朔、立日葉酢媛命爲皇后、生三男二女、第一曰五十瓊敷入彦明、39年10月、是後命五十瓊敷命卑主石上神宮之神寳、87年2月丁亥朔辛夘、五十瓊ぬ命、謂妹大中姫曰、我老也、不能掌神賓、自今以後、必汝主焉、遂大中姫命授物部十千根大蓮而令治、云云、 神主縣則満云、因幡明神は延喜式物部神社と旧記にあり、然れども土岐齋藤の乱に、因幡山に城を築の時、当社も今の処に遷す、其後信長公居城し時、井之ロを岐阜、因幡山を金花山と地名をさへ改められ、猶又三七郎殿大乱にて、明白ならぬ事多しと云り、連胤按るに、紀伊國伊都郡丹生都比女神社を、古今天野明神と称する例なるべし、
神位
続日本後紀、承和12年7月辛酉、美濃國厚見郡無位伊奈波神、奉授從五位下、依國司等解状也、三代實録、貞観11年12月5日戊子、授美濃國從五位上伊奈波神正五位下、元慶2年9月16日戊申、授美濃國正五位下否間神正五位上、同4年11月9日己未、授美濃国正五位下伊那波神從五位下、本國神名帳、正一位伊那波大神、
連胤按るに、本國神名帳、從五位下物部明神、同物部財主明神、同物部財公明神とあるは別神にて、式外社と思はれたり、  

神社覈録



縣社 伊奈波神社

祭神 彦多都敷彦命 亦名丹波道主命
相殿 (左)日葉酢姫命(右)五十瓊敷入彦命
合祭 物部十千根命(物部神社)
社伝に云く、景行天皇44年春2月16日社殿を厚見郡稲葉山麓椿原(現今丸山の地)に創建し、宣命ありて伊奈波大神を齊祀せらると、当社伝に式内物都神社は合殿にますとみゆ、美濃明細記にも、因幡社の條に物部神社云云、伊奈波神叙位のことを記して擬を存せり、さて同書に正一位因幡社、垂仁天皇之皇子五十瓊磯城入彦命奉祭と云ひ、社説には祭神五十瓊敷入彦命、日葉酢媛命、淳熨斗媛命、物郡十千根大連とあり、神社覈録に「神主縣則満云、因幡明神は延喜式物部神社と旧記にあり、然れども織田信長のとき、井之口を岐阜、また因幡山を金花山と改められたるを以て、明白ならぬ事となれり」とみえ、名細記に「土俗伝へ云、此神被封因幡國敦自陸奥金石を取来て止此地云々、伊奈波山又称金花山者、陸奥国金花山を形容て称之歟」とある説どもをとり総べて考ふるに、日子坐王の子美知能宇斯王は稲葉國造となり玉ひ、其弟神大根王は三野国造本巣国造の祖にて、因幡美濃両國に所縁あり、故に土俗の伝に被封因幡国とは云ひしにて、外祖の御ことを誤り伝へたるものとみえたり、斯れば、實は三野國本巣国造のゆかりによりて、其御兄にます美知能宇期王、及び御女なる比婆須比売命を祭りて伊奈波神と称へ奉り、五十瓊敷命其御妻淳熨斗姫命、及び物部十千根連を祭りて、物部神社と称へて名社なりけんが、故ありて二社を一社に含せ祭りしより、或は伊奈波神は物部神社の如く、物部神は伊奈波神社の如くにも聞ゆるばかりになりこしものなるべし、さて五十瓊敷命は石上神社の神宝を主り、十箇の品部を掌り給へるを以て物部神と云ひ、又御妹大中姫の其神宝を十千根連に掌らしめつる所由によりて、物部十千根をも合せ祭れるにやあらん、かかれば、因幡神社傳に物部神社合殿にますと云へる、根拠あるが如くに聞ゆれど、確証を得ざれば今定めがたし、然れど神紙志料美濃國式社考には、式外ノ社として載せられたり、新撰美濃志に、「稲葉権現社は南の山西の麓の高き所、町よりは東の方にあり云々」、美濃神名記に「正一位伊奈波大神また從五位下物部明神とあるは此社の事也」といひ、木曾路名勝国図に、「当社初め伊奈波山椿原の地にありしを、天文8年齋藤秀龍城を築く時、今の地に遷座なし奉るといへり、濃陽絢行記に、「むかしは、本社は北の方丸山に鎮座、峰ノ権現ば天守台の所に鎮座ありしが、土岐の家臣永井豊後守始めて城を築きし時、今の山に鎮座す、又前太平記には源國房城を構しといへり、丸山の根に今深淵とありて御手洗と称す、昔は七千貫の社領ありしと云」としるせり、神位は続日本後紀に、仁明天皇承和12年7月辛酉、國司等の解状に依りて從五位下を授けられし由志るし、三代実録に「貞観11年12月5月戊子、授美濃國從五位下伊奈波神正五位下(類聚国史同じ)元慶2牟9月16日戊申、授美濃國正五位下否間神正五位上、元慶4年11月9日己未授美濃國正五位上(版刻本三代実に正五位下とあるはあやまなるべし)伊那波神從四位下」と見えだり、其後の進位は古書に見えず、美濃神名記と、文永2年乙巳浩洗2日、從三位藤原朝臣経朝の書きし当社の額に正一位と志るしたれば、其以後に正一位まで進階ありしなるべし、尚縁起に曰く、当時王化未だ邊域に沿からず、殊に陸奥國金丸城に拠る者、党類多くして最も強桿なり、朝廷屡々兵を遺はすと雖も鎮定せす、乃ち皇子五十瓊敷入彦命に勅して之を征せしむ、是に於て皇子は王子市隼雄命、及び臣僚兵騎を從へて東下し、連戦年を度り、遂に賊を滅して凱旋し、美濃国厚見縣平田河(長良川の古流)に着し給ふ、是より先き識者あり、皇子東夷を率いて叛を謀ると奏す、天皇怒りて兵を発し給ふ、官軍来りて河の西岸に陣す、皇子之を望みて帳然だり、其臣毛里倫満進んで曰く、君は第一の皇子にして天位を継ぎ給ふべきを、親ら願ひて兵器を総べ給ふは、其心上は皇位を佐け、外は不庭を征服せんとし、豪も私塑あるにあらざるなり、直に敵を破り道を排き、進んで闘下に詣りて分疏し給へと、皇子答て曰く、我の勅を奉じて邊際に出つる、茲に年あり、櫛風沐雨少時も幾食を安んぜず、漸く賊を討ずるを得て、還りて、龍顔を拝せんと欲せしに、不幸にして誹に遇ひ、官軍の臨む所となる、然れども王師には抗すべからずと、轍ち兵騎を散じ、虜を官箪に致し、去つて椿原に至る、幾もなく薨じ玉ふ、皇子は自ら願ひて、弓矢を獲て武を備へ、十箇品部を率いて、工藝を興し農業を勧め、其功徳淘に大なるを以て、薨ぜらるるの翌年勅して之を祀る、又淳慰斗姫命は、皇子の官軍に浬められ玉ふを聞き、大に之を悲み、迷ひ出でて薨ぜらる、故に之を合祀す、物郎十千根命は、皇子と由縁深きを以て共に之を祭る、此社は丸山の北(即ち古への椿原なり)に在りしが、天文8年今の地に遷せりと云ふ、是れ縁起の大略なり、明治24年の大震に際し悉く焼燼せり、社宝は石劒、古額、古縁起、古代農具其他古書、古劒、古代樂器、古鏡、彫刻物等一々枚挙に遑あらず、好古の士は社務所に請うて一見せば頗る美術工芸の参考に費するものあらん、毎年4月4日、5日両日を以て祭典を行ふ、其式盛んにして大に雑沓を極むと云ふ、老松古檜は森々として社壇を擁し、楓櫻は互に枝を交へて槻道を爽み、幽静にして愛すべし、又此間に一の瀑布あり、一條の白布を晒すが如く、其水清冷  として鳴り、以て耳を洗ふに足るべしとあり、以て本社の由緒、及び沿草の梗概を知るに足るべし、明治7年縣社に列せらる
。 社殿は假本殿、絵馬殿。東神輿庫、西神輿庫、神厨等を具備し、境内坪数6165坪余(官有地第一種}を有す、宝物は石劔(長一尺九寸五分)古額(裏面文永4年浩涜二日従三位藤原朝臣経朝銘)古縁起書一巻(延文4年9月卜部鎌助勘餓世尊寺)其他数十種を臓すと云ふ。

明治神社誌料






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