石座神社
いわくらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石座神社 三河国 宝飯郡鎮座
          (旧地)石座神社【旧地】

   【現社名】石座神社
   【住所】愛知県新城市大宮狐塚 14
       北緯34度55分33秒,東経137度31分10秒
   【祭神】天御中主命 比賣大神 大山祇神 素盞嗚尊 天稚彦命 伊弉册命 倉稻魂命
   【例祭】10月不定期 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大宝3年(703)国家的な奉齋に預かつた
       仁寿元年(851)10月7日従五位下『日本文徳天皇実録』
       元慶7年(883)12月28日従五位上『日本三代実録』
       嘉吉3年(1443)12月13日鐘銘あり
       戦国時代武田信玄社によって焼払られる

   【関係氏族】
   【鎮座地】雁峰山中腹に磐座がある、旧地という

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「岩倉大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       神饌所・拝殿・神樂殿

   【境内社】八幡社・金刀平神社・高松神社・山御堂神社
        護国神社


大宮川北岸に鎮座する。
山裾。集落奥。本殿・拝殿は大きい。参道杉並木。叢林有り。市文化財の木造神馬あり。
往古に社殿が存在したと伝えられる雁峯山の磐座への原始信仰が、当社成立の母体であつたことは明らかであろう。
石座神社の本殿敷地の北東隅に「石座石」(大宮の石座石)がある。雁峰山中腹の「石座石」(須長の石座石)と比較すると遙かに小さい。
いつ頃か、石座神社が現在の大宮の地に遷座されたことに伴い石座石も山から一緒に降りてきたものと考えられる。
大宮の石座石は小さいため、須長の石座石の一部であるのか、山中の石座石が所在する周辺地で下におろすことができる手ごろな石を(神域から?)持ち出したものが大宮の石座石としたものなのかは不明。しかし、地元の人が現在でも石座石をお祀りしており、大宮の石座石は祭礼日が天候不順であったりとか、須長の山中の石座石まで行けそうもないときは大宮で代参するということである。


由緒

新城市文化財指定
木造神馬
新城市大宮 石座神社
指定月日 昭和33年4月1日
この馬は、はじめ白い馬であったが夜毎に出て田畑を食い荒らすので格子造りの馬小屋の中に入れて黒く塗ってしまった。そうしたらもう田畑に出てこなくなったという。そんな伝説が残る木造漆塗りの馬は、体高105cm体長150cmの大きなもので空道和尚の作と伝えられている。空道和尚は正徳年間頃にこの地に生まれ旗本設楽家に仕えたが後に仏門に入りその徳は人々に広く慕われたという。
昭和61年8月1日
新城市教育委員会

社頭掲示板




石座神社

御由緒
当神社ハ創立年代ハ不詳ナレドモ延喜式ノ式内神社ニシテ参河総国風土記ニ大宝三年九奉圭田行神事トアリ其ノ外文徳宝録ニ仁寿元年十月参河国石鞍神従五位下位トアリ宝録ニ元慶七年十二月二十八日授参河国従五位下石鞍神従五位上国内神名帳ニ正三位磐倉大明神式内座設楽郡トアリ 鐘名ニ参河国設楽郡岩倉大明神嘉吉三年トアリ社殿ハ北方ニ聳ユル神峯山ニ鎮座シ設楽郡一帯ノ信仰ニ篤ク今尚猶存ス明治五年郷社ニ列シ大正十三年三月県社ニ列セラル
攝社 須波南宮社 鍵南方刀自命従四位下  児御前社 石鞍若御子天神従五位上
末社 百山社 白山比当ス  水神社 速秋津姫命  神楽社 安須女命  伊雑社  伊雑大神
   山神社 大山祇命  金比羅社 大物主命  保食社 倉稲魂命  荒波婆岐社 豊石窓命 奇石窓命
   素盞嗚社 素盞嗚命  祖霊社 天児屋根命

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石座神社

当社の起源は最も古く、太古より神峯山(雁峯山)の峯に大きな岩が有り岩座石(額岩)と言い、その傍らに稚子石(石座石)がある。いずれも古代の磐座(神の鎮座するところ)であって、これが石座神社の起源であるという。社は、上古この山頂に御鎮座していたが野火によりたびたび焼失し、そのため中古現在地に移ったと伝えられる。
旧設楽郡内唯一の式内社で「延喜式神明帳」(905−927)に宝飯郡(当時宝飯郡・設楽郡)六座の内に石座神社とある。また、それ以前の文献「文徳実録」仁寿元年(851)の条に石鞍神従五位下「三代実録」元慶7年(883)の条に石鞍神従五位上、「国内神名帳」(成立年代不詳)に正三位盤倉大明神式内設楽郡と記されている。尚、江戸時代に書かれたという「三河総国風土記」に、大宝3年(903)5月奉圭田行神事とある。
旧信濃国伊那郡立石村(現長野県飯田市)立石寺の鐘名に、三河国設楽郡岩倉大明神嘉吉3年□月13日鋳之とある。
天正3年5月設楽原決戦に織田信長徳川家康が戦勝祈願をしたという。
明治5年郷社に列し、大正13年県社となる。

社頭掲示板



石座神社

石座は伊波久良と訓べし○祭神天稚彦命、(風土記)○今設樂郡富長庄大宮村に在す、(二葉松、私考略、)列祭 月 日〇惣國風土記残欠云、篠塚郷、(和名鈔篠東)石座神社、圭田四十六束五字□、所祭天稚彦也、大寳2年壬寅9月、始奉圭田行神事、
類社
越前國大野郡、同國同郡高於、大槻、同國敦賀郡伊部磐座神社、
神位
文徳實録、仁寿元年10月乙巳、参河國石鞍神授從五位下、三代實録、元慶7年12月28日庚申、参河國從五位下石鞍神授從五位上、」國内神名帳云、正三位磐倉大明神、

神社覈録



郷社 石座神社

祭神 天御中主神、天稚彦命
創立年代詳ならずといへども、明細帳に、「勧請之儀は、三河風土記に、文武天皇大宝3年癸亥9月、始奉圭田行神事と相見え、其以前のことは不詳」と見えたり、然れども右三河風土記は、世の所謂総國風土記収載のものにして、著名なる偽書なれば、明細帳などに麗々しく載すべき書にあらざるは勿論なり、さて其創立は不明なりといへども、延喜式内社にしで、神名帳に「宝飯郡石座神社」と見え、(因みに延喜式編製当時は宝飯郡なりしが故にかく書されたるとのなるべげれども、俗に廷喜3年8月に宝飯郡を割って後本郡を置かれし旨、式の首書に見えたり)文徳實録に「仁寿元年冬10月乙巳、授三河國石鞍神從五位下」と見え、三代實録に、「元慶7年12月28日庚申、授三河國從五位下石鞍神從五位上」と見え、又國内神名帳に「正三位磐倉大明神」と見えたり、往古、社領頗る多かりけん太田白雪の記録聞所法問の永禄元年8月朔日の古文書に、和志津村五町八余田地を牧野右馬丞より磐座大神宮へ寄進のよし見えたるが。武田信玄の兵焚に罹りて古文書棟札等を灰燼に帰せしめし爲め、社領を失ふに至れり、古雷近郷十四ケ村の氏神たりしが、明治5年郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、神饌所、神薬殿、神厩等を具備し、境内地21494坪(官有地第一種)あり、竹廣の西に隣h、雁峯其西を圧して屹立す。

明治神社誌料



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