砥鹿神社(里宮)
とがじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】砥鹿神社 三河国 宝飯郡鎮座
          (奥宮)砥鹿神社(奥宮)

   【現社名】砥鹿神社(里宮)
   【住所】愛知県豊川市一宮町西垣内 2
       北緯34度50分51秒,東経137度25分14秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】5月4日 例祭
   【社格】三河国一宮 国幣小社
   【由緒】大宝年中文武天皇の勅願で宮居を定めた
       嘉祥3年(850)7月1日従五位下『文徳天皇実録』
       仁寿元年(851)10月7日従五位上
       貞観6年(864)2月19日正五位下『三代実録』
       同12年(870)8月28日正五位上
       同18年(876)6月8日従四位上
       文政10年6月20日正一位
       慶長7年(1602)6月16日社領百石の朱印
       明治4年国幣小社

   【関係氏族】鹿砥氏
   【鎮座地】古代末期以來、現在地に鎮座座し続けている

   【祭祀対象】本宮山
   【祭祀】
   【公式HP】 砥鹿神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・渡殿・神饌所・手水舎・西手水舎

   【境内社】二宮社・三宮社・八幡宮・守見殿神社・八束穂神社・荒羽々気神社

豊川IC北東、151号線の東に鎮座
参河国一宮であり、砥鹿神社里宮である。
古代は奥宮のみ存在したが、文武天皇の時代(大宝年間)に草鹿砥公宣(くさかど きんのぶ)が里宮を建立したという。
文武天皇病悩の時、勅使(社家草鹿砥氏の祖、「公宣」卿)が参河国設樂郡煙巖山の勝岳仙人のもとに遣わされたが、道に迷い本茂山(本宮山)に踏み入つた。この時、砥鹿神が老翁の姿で現れ、勅使を助けて煙巖山に至らしめた。のち、勅願によつて本茂山の麓に宮居を定めることとなつたが、その際、清流に衣を流し、その流れ着いた地点に社殿を建立したという。
磐座をもつ巨大な山塊(本宮山)に対する山岳崇拝が奥宮を生みだし、人びとを益する川(豊川)神に対する信仰が里宮を生みだしたと云われている。
古代末期以來、現在地に鎮座座し続けている。
創祀以来草鹿砥家が代々世襲的な地位を築いている。
「亀甲に卜象」ぼくしょう)という珍しい神紋を有している。


由緒

砥鹿神社と本宮山
砥鹿神社
本宮山砥鹿神社奥宮
砥鹿神社は大己貴命(大国さま)を祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各方面から篤い崇敬をいただいています。昔は本宮山にお祀りされていましたが、御神託により今から約千三百年程以前の文武天皇大宝年中に現地にお迎え申し上げてより、里宮本社と本宮山奥宮の二社となり、三河国一宮として広く尊崇せられ、交通安全、家運隆昌、厄難消除の御神徳が皆様に仰がれています。
摂社二宮社は事代主命(えびす様)をお祀りし「三河えびす社」とも申し上げています。又、三宮社は建御名方命(諏訪様)をお祀りし、共に御本社の御子神で崇められています。
社殿は総檜造りの荘厳な建物であります。
三河湾に面した美しい姿の本宮山(海抜七八九メートル)は、千年近い大木の杉檜が林立した神山で、頂上附近の自然林は神域として保護され数百種の草木が繁茂し、愛知県天然記念物として指定されています。
頂上には三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座し、霊験あらたかな大己貴命(大国様)をお祀りしています。本宮山は古代人より持ちつづけた信仰の中心であり、人生の哀歓、苦悩、願望等の生活社会の精神面問題も御神徳の御力により私共を自然の心に立ち帰らせ、幸せに導いて下さいます。
近年頂上まで本宮山スカイラインが開通し、起伏に満ちた山々、又アルプス連峰、富士山の秀峰、浜名湖の景観と丸山公園のツツジの花園、森の緑は参拝者の心を癒し、名実共に三河国唯一の霊山であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




砥鹿神社

「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。
 そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河 国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(天正2年)は次の様に伝えている。
 文武天皇の大宝年間に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として 「煙巌山」に使わされた。公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出 現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。 公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなった。その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたが、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を 取り上げて、七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのである。 古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥3年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観18年には従四位上に至った。こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのである。
その後江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、文政10年に正一位が授けられ、また明治4年には国幣小社筆頭に列せられた。

公式HP



砥鹿神社

三河国一宮 砥鹿神社(里宮)
祭神 大己貴命
例祭 5月 3・4・5日
特殊神事
1月3日 田遊祭
1月8日 弓始祭
2月7日 火舞祭
当神社は、太古より本宮山にお祀りされていたが、今から約1300年前の大宝年間、現在地にお遷しした。
爾来、三河国一宮として、或いは、東海地方の総鎮守として、広く朝野の崇敬を寄せられてきた。
現在は、交通安全、厄除守護、家運隆昌のご神徳が仰がれている。社殿は、昭和37年に造営成った、総桧造りの荘厳な建物である。

社頭掲示板



砥鹿神社

三河国一宮
延喜式内社 砥鹿神社
御祭神 大己貴命
例祭日 5月4日
由緒
当社の創始は詳かではない。当社神名が国史に明記されるのは、文徳実録巻二、嘉祥3(850)年秋7月の条からで、従五位下の神階に叙せられたとある。その後幾度かの加階を経て文政10(1827)年には正一位の神階に昇叙た。
平安時代初期以降当社は三河国の一宮、また延喜式神名帳登載の名神小社として、朝野の崇敬を受け、当三河国内神社の首座として国司の巡拝及び奉幣に預かった。
慶長7(1602)年に、徳川家康より朱印領として一宮領百石、同8(1603)年には本宮山領二十石の寄進を受け明治に至った。
明治4(1871)年の官国幣社の制度では、国幣小社の筆頭に列したが、戦後この社格制度が廃止になり、現在神社本庁別表神社として、本宮山奥官とともに時代を超えて、広大無辺な御神威が受け継がれている。

社頭掲示板



砥鹿神社

とがじんじゃ 愛知県宝飯郡一宮町大字一宮。旧国幣小社(現、別表神社)。祭神は大己貴命を祀る。三河国の一の宮で、もと本宮山山頂に鎮座していたが、大宝年間(701−04)に神託により現在地に遷座されたと伝えられている。一方、本宮山山頂にはいまも奥宮が鎮座しており、周辺一帯は本宮山県立自然公園に指定された景勝地である。『文徳実録』嘉祥3年(850)従五位下、仁寿元年(851)従五位上を授け、『三代実録』貞観6年(864)正五位下、同18年には従四位上を授けている。『延喜式神名帳』にも列した。また、『国内神名帳』にも正一位砥鹿大明神とある。古代より国司の崇敬が篤く、中世には武家の崇敬が加わった。慶長7年(1602)徳川家康が朱印一〇〇石を寄せ、翌8年にはさらに朱印二〇石を奥宮に寄せている。徳川時代(1603−1868)吉田藩主歴代の崇敬も篇く、例祭には代参を派遣し、臨時の祈願には社参した。例祭は本社が5月4日に、奥宮が2月6日に行われる。1月3日に田遊祭、1月6日に宝印祭が本宮山山頂奥宮末社守見殿神社で、1月8日は弓始祭、2月7日は末社八束穂神社で火舞祭が行われる。旧正月15日に本宮山山頂での粥占祭に、粥をたいてその年の農作物の豊凶を占う神事として有名である。

神社辞典



砥鹿神社

砥鹿は假字也〇祭神大己貴命、(一宮記、頭注、)○雀部庄一宮村に在す、(二葉松、私考略、)例祭、月 日〇当國一宮也、(一宮記)〇惚國風土記残欠云、砥鹿神社、圭田五十三束、所祭大物主神也、文武天皇元年、始奉圭田加神禮、
神位
文徳實録、嘉鮮3年7月丙子朔、授参河国砥鹿神從五位下、仁寿元年10月乙巳、進参河国砥鹿神階加從五位上、三代実録、貞観6年2月19日丙乎、授参河國從五位上砥鹿神正五位下、同12年8月28日戊申、授参河國正五位下砥鹿神正五位上、同18年6月8日癸丑、授参河国從四位下砥鹿神從四位上、』文政10年6月20日、被奉授正一位位記、
社領
三河国二葉松云、社領百五十石、

神社覈録



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