矢作川西岸、男山と女山の大小二つの丘からなる八ツ面山の中腹に鎮座する。 八ツ面山を中心として当地は、古くから雲母の産地であり、昭和の初年まで採掘されていた。 当社の創祀は、その雲母採掘にかかわる祭祀によるものと思われる。 当社は古くは男山の山頂付近にあり、当社は山上の採掘場を祀り、熊味町の社は採掘する住民の集落ないしは、集積の地とも考えられる。 伝承に、往昔は社殿が八面山の頂上に西向きに鎮座していたのを永禄年間(1558-1570)に当時の城主鳥居元忠が現在地に移し東向きに改めたとされる。 『三河志』『参河国官社考集説』では、「久麻久神社二座」のうち、一座は吉良庄熊子村の稲荷明神〔現西尾市熊味町久麻久神社〕、他の一座は吉良庄八ツ面村の大宝天王社〔現西尾市八ッ面町久麻久神社〕に比定している。 |
由緒 式内・久麻久神社 所在地・西尾市八ツ面町麓77番地 祭神・大雀命,須佐之男命,熱田大神,外六柱 当社の創建は古く明確でないが、延喜式神名帳所載の古社で、近郷17ヶ村の総氏神として崇敬されていた。 旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より、久麻久連一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社である。 文武天皇の大宝年間(701〜4)に、須佐之男命を勧請し、山頂に祀り大宝天王宮と称した。 その後、八ツ面山西村麓、荒川城主荒川甲斐守義弘これを崇敬し、堂宇を興し荒川大宝天王宮と称した。 荒川氏没後、徳川家康は家臣鳥居元忠に命じ、現在地に奉遷させたと伝えられる。 明治六年、社名を旧名「久麻久神社」に復した。 本殿は、室町時代後期の代表的建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王は、藤原時代末期の作である。 また、古い木製や陶製の狛犬も有名である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
重要文化財 久麻久神社本殿 (くまくじんじゃほんでん) 指定・種別 国指定・建造物 員 数 1 棟 法 量 身舎桁行4.3m 梁間4.2m 向拝軒出1.2m 時 代 室町時代後期 大永7年(1527) 付(つけたり) 鰐口:宝徳元年(1449)・棟札2枚:@大永7年A貞享3年(1686)・厨子 所蔵・管理者 久麻久神社(八ツ面町) 一重入母屋造、桁行三間、梁間二間、向拝三間。桧皮葺の蟇股や手挟みなど軒周りの彫刻の美しい本殿。昭和44年の解体修理によって棟札や墨書から大永7年に再建されたものであることが明らかとなった。向拝中央と南側の蟇股に「大永七?丁/亥卯月廿一日」「参河ьタ相寺住僧有□」などの墨書がある。 『西尾市悉皆調査報告六 社寺文化財(建造物V)報告書 神社(米津・西尾地区)』岡野清氏 http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/30bunka/bunz/bun1.html |
雲母山坑埋奉仕之碑 男山の東斜面中腹にあります。雲母の産出は、『続日本紀』の和銅6(713)年に「又大倭、参河をして並びに雲母を献らしむ」とあるなど古代から行われ、朝廷に献上されたことなどが記されています。なお、吉良荘の名はこの雲母から出たとされ、当時は薬用とか紙すきの添加物に利用し、近世以来、さかんに採掘され、扇面や唐紙などの装飾模様の材料とされました。採掘者は付近の農民で、時期は農閑期に行われましたが、明治33(1899)年、雲母坑で遭難事故があり、採掘が中止されました。昭和6年、小学生が廃坑で転落死したことから、地元青年団の奉仕によって廃坑の埋めたて作業が行われ、のべ26日間にわたり、平均5メートルの深さの雲母坑が642個埋められました。 社頭掲示板 |
久麻久神社 久麻久神社(くまくじんじゃ)の御祭神は、大雀命、須佐之男命、熱田大神です。 創建は古く祟神天皇の御代、久麻久連が京都丹後半島与謝の国よりこの地に来て開拓し、その産土神が当社の始まりと伝えられています。大宝年間に旧大宝村より新たに須佐之男命を勧請し、大宝天王宮とも言われていたようです。戦国時代八ツ面城主荒川甲斐守義弘氏の信仰が篤く、荒川大宝天王宮と呼ばれ、徳川家康も西尾往還の折は参拝したと伝えられています。 延長5年、『延喜式』神名帳にその名が記されている、格式の高い古居神社です(延喜式内社)。 当社が鎮座する八ツ面山は、古くはきらら山(雲母山)と呼ばれ吉良町(旧きらの庄)の名前の由来となったとも言われています。 拝殿横の椎の木は連理の枝の古木で、男女の幸せの象徴です(久麻久神社の椎の木郡、市指定)。 本殿は一重入母屋造、三間向拝付、桧皮葦の屋根で細部の意匠も優美であり、県内でも類例の少ない形式で建立年代(1527)の明らかな社殿として貴重です(国の重要文化財)。 牛頭天王神像(県重文)、陶製狛犬(県重文)などの文化財も所蔵しています(未公開)。 西尾市観光協会 |
久麻久神社 大宝年間(701〜704)の勧請創祠と伝えられる延喜式内社で、当初は八面山頂上に鎮座していたが、大永年間(1521〜27)に山の東方中腹に奉遷されたという。現在の本殿は棟札により大永7年(1527)の建立であることが知られる。 桁行3間、梁間2間、入母屋造、檜皮葺の社殿で、正面と側面に縁を廻らし、縁の後端には脇障子(わきしょうじ)を設ける。さらに正面には3間の庇と浜床(はまゆか)を付す。庇の柱は大面取りの角柱、身舎(もや)の柱は円柱とし、身舎では縁長押、内法長押を四周に廻らし、柱上に出三斗(でみつど)を載せる。組物間の中備(なかぞなえ)には正面に彫刻蟇股(かえるまた)、側面と背面に蓑束(みのづか)を置く。正面柱間3間には両開きの板唐戸を入れ、側面の前端間には連子窓(れんじまど)を設ける。 現在、内部に1間四方の神座を設けているが、もとは一室であったと考えられる。附指定の厨子は方1間、板屋根の簡素な小型厨子である。 細部の意匠も優美で、類例の少ない形式の社殿として貴重である。(岩田敏也) 文化財ナビ愛智 |
久麻久神社 久麻久神社本殿 重要文化財 建造物 昭和25年8月29日指定 付 棟札二枚 鰐口一口 厨子一基 本殿は桁行三間・梁間二間・入母屋造りで向拝がつく。室町時代の建築である。向拝の蟇股に「参河пi州)実相寺住僧有□大永7(1527)季丁亥夘月21日」と墨書がある。昭和44年に解体修理が行われた。 牛頭天王神像 愛知県指定文化財 彫刻 昭和38年4月19日指定 一木造り。像高79cm。藤原時代末期の造像とみられる。 狛犬 愛知県指定文化財 工芸 昭和38年4月19日指定 陶製灰釉。阿吽一対。室町時代の造像とみられる。像高、吽形26cm、阿形25cm。台板に「荒川宮捨入自□」と墨書がある。 社頭掲示板 |
久麻久神社の御神木「連理の枝のシイの木」 『連理の枝のいわれ』 連理とは、一本の木の枝が他の木の幹と連なって木目が通じ合っていることで「連理の枝」といいます。 その語句は、中国の唐の時代の詩人、白居易(白楽天)の「長恨歌」の一節で、玄宗皇帝が楊貴妃に囁いた「天に在りては、願わくは、比翼の鳥と作り、地に在りては、願わくは、連理の枝と為らん」と歌われていることから始まり、夫婦・男女の仲睦まじいことのたとえです。 又、「連理の契り」と言って男女の間が永遠に睦まじく、変わる事のない契りを表します。連理の枝の木があることは珍しく、神社の祠の前に連理の枝が在るということは、神様の思し召しの様に思われます。 神社の周辺には、多くの椎の古木が生い茂り西尾のパワースポットとして、神聖な雰囲気を醸し出し地域の安泰と繁栄を祈る神社を守っています。 久麻久神社のシイ群(連理の枝のシイ含む)は西尾市の銘木として指定されています。 社頭掲示板 |
式内 久麻久神社 所在地 西尾市八ツ面町麓77番地 祭神 大雀命・須佐之男命・熱田大神 外六柱 当社の創建は古く明確でないが、延喜式神名帳所載の古社で近郷十七か村の総氏神として崇敬されていた。 旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社である。 文武天皇の大宝年間(701〜4)に須佐之男命を新たにお祭りし大宝天王宮と称した。その後、八ツ面山の西麓、荒川城の城主「荒川甲斐守義弘」これを崇敬し、堂宇を再興し「荒川大宝天王宮」と称した。荒川氏歿後、徳川家康は家臣の鳥居元忠に現在地へ奉遷させたと伝えられる。 明治元年社名を旧名「久麻久神社」に復した。本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王像は藤原時代の作で県下最古のもの。また古い木製や陶製の狛犬も有名である。 平成元年3月 社頭掲示板 |
久麻久神社 二座 久麻久は假字也○祭神詳ならず○吉良庄熊子村に在す、今稻荷と称す、(二葉松、私考略、)例祭 月 日 私考略には、一座は吉良庄熊子村、一座は同庄八面村に在す、今大寳天王と称すと云り、 神位 國内神名帳云、從四位下熊来明神、 社領 三河国二葉松云、社領二十石、 神社覈録 |
郷社 久麻久神社 祭神 大雀命 須佐之男命 熱田大神 当社は延喜式神名帳に「久麻久神社二座」と見えさせ給へる一座に坐まし久麻久上社と奉称せり、創立年代詳ならすといへども、羽田野氏の集説に云く、 「予天保8年2月、八面社にまいで、其神主古川氏に問へるに、大宝年中、素戔鳴尊を勧請奉るに依て、大宝天王と號す、云々、又古き鰐ロあり、宝徳元年己巳12月、三河國吉良庄荒河大宝天王御前といふ銘あり、」 と、国内神名帳に從四位下熊来明神と見え、大宝天王とも奉称す、社領二十九石を有したりしが、明治元年奮号に復して久廠久神社と改称し、同6年3月郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿其他神楽殿等を具備し、境内は2159坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |