糟目春日神社
かすめかすがじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】糟目神社 三河国 碧海郡鎮座
          (旧地)糟目春日神社

   【現社名】糟目春日神社
   【住所】愛知県豊田市渡刈町北田 62-4
       北緯35度1分54秒,東経137度9分33秒
   【祭神】天宇受売命 (配祀)彦火火出見命 素盞男命 天照大神
       『明治神社誌料』『碧海郡誌』天宇受売命・彦火火出見尊
       『神社覈録』『特撰神名牒』「不詳」

   【例祭】10月7日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀は詳らかでない
       大宝2年(702)10月持統太上天皇がこの地で鷹狩、そのときには存在
       仁寿元年(851)10月7日従五位下
       明治5年7月「糟目春日神社」と称す
       同年9月郷社
       同40年10月26日神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は大明神橋辺の東10間の川岸にあった
        天明年中渡刈町大明神21番地(大明神橋辺)に遷
        大正3年10月現地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「塩指大明神」と称していた
   【公式HP】 糟目春日神社
   【社殿】本殿神明造(銅板葺)
       拝殿・幣殿・神饌所・神樂殿・社務所

   【境内社】秋葉社・津島社・山神社・祖霊社

豊田東IC西、明治用水西岸に鎮座する。
矢作川と巴川の合流地点近くの矢作川右岸沖積平野にあり、川岸近くに鎮座する。そのため古代より川の氾濫によつて社殿が流されたと伝える。
糟目の語源は河岸(カシ)間であろう。間はある地域を指す語である。
現在の社地は大正3年10月に遷座した地で、旧社地は鳥狩塚古墳の近く大明神橋辺の渡刈町字大明神21番地に鎭座していた。現在そこには「糟目春日神社跡」の石碑が建ち、現神社より北約1kmの所である。



由緒

大宝2年持統天皇三河国に行幸当地に御 の砌り鷹狩し給う。よってこの地を鳥狩捕都賀利戸刈と書くに至れり。第60代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ文徳実録に正位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河の満潮時には潮指し来たれりといふ。 明治2年神祇官より延喜式内社に確定される。明治5年7月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年9月郷社に確定される。明治39年4月供進神社に指定される。大正2年無格社熊野社合祀現在地を拡大整備せり。大正3年10月5日神殿八棟を新規築造奉斎せり。昭和52年10月幣殿祭祀殿を再建し崇敬の誠を顕し以って之を後世に伝う。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




糟目春日神社

祭祀殿竣工記念碑
七級社 糟目春日神社
鎮座地 豊田市渡刈町北田62番地の4
祭 神
天宇受賣命
彦火火出見命
素戔嗚命
由 緒
一、 大宝2年持統上皇三河國に行幸当地に御駐蹕の砌り鷹狩し給うよつてこの地を鳥狩鳥捕都賀利戸苅と言ひ今日渡刈と書くに至れ り当時すでに糟目神社を祀れり
一、 第60代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ、文徳実録に正四位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方一大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河の海の満潮時には潮指し来たれりと伝う
一、 明治2年神祇官より延喜式内社に確定される
一、 明治5年7月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年9月郷社に確定される
一、 明治39年4月供進神社に指定される
一、 大正2年無格社熊野社合祀現在地を拡大整備せり
一、 大正3年10月5日神殿八棟を新規築造奉斎せり
一、 昭和52年10月幣殿祀殿渡り殿を再建
一、 崇敬の誠を顕し以つて之を後世に伝う
末 社
社口社 猿田彦命
秋葉社 火産霊命
山ノ神 大山祇神

社頭石碑



糟目春日神社

大宝2年持統上皇三河国に行幸の折り当地にて鷹狩をされました。よって奉祀されたのが始まりとされ、1300余年と大変由緒があります。
又、この地を鳥狩・鳥捕・都賀利・戸刈といい、今日渡刈と書くようになりました。
第60代醍醐天皇の御代に「延喜式」に載せられ、また「文徳実録」に正四位糟目神社とあり、糟目大明神又は塩指大明神といわれ、矢作川上流西方大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し、三河の満潮時には潮指し来たりともいわれました。
明治2年神祇官より延喜式内社に確定される。明治5年7月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年9月郷社に確定される。明治39年4月供進神社に指定される。大正2年無格社熊野社合祀、現在地へ神社を移転することになりました。同3年10月5日神殿八棟を新規築造し奉斎しました。昭和52年10月拝殿雨覆い渡りを改築竣工されました。
渡刈町

社頭掲示板



末野原聖蹟

伝云フ大宝二年持統上皇三河二行幸アラセラレ蹕ヲ此ノ地二駐メ鷹狩ノ事ヲ行ヒ給フ依テ地名ヲ鳥狩ト称シ後世都賀利戸刈等ノ字ヲ用ヒ遂二渡狩ト記スルニ至ルノ所、梓弓末之腹野爾鷹田為君之弓食将絶跡念甕屋ノ歌ハ此ノ地ヲ詠ジタルナル可其ノ他古詠頗ル多シ今茲ニ大典ニ当リ謹ミテ聖蹟ヲ顕揚シ碑ヲ建設シ以テ之ヲ後世二伝。
 梓弓末の腹野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや
 梓弓 末之腹野尓 鷹田為 君之弓食之 将絶跡念甕屋
              大正4年11月(1915)建立

社頭石碑



糟目春日神社

1.大宝2年(702年)持統上皇三河国に行幸当地に御駐蹕の砌り鷹狩し給うよってこの地を鳥狩鳥捕都賀利戸苅と言い今日渡刈と書くに至れり当時すでに糟目神社を祀れり
1.第60代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ文徳実録に従5位下糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云われ矢作川上流西方一大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河の海の満潮時には潮指し来たれりと云う
1.明治2年神祇官より延喜式内社に確定される
1.明治5年7月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年9月郷社に確定される
1.明治39年4月神饌幣帛料供進社に指定される
1.大正2年無格社熊野社合祀現在地を拡大整備した
1.大正3年10月5日神殿8棟を新規築造奉斎した
1.昭和52年10月幣殿祭祀殿渡り殿を再建した
1.平成12年10月現在の手水舎を新設した
1.平成25年10月社務所を再建した

公式HP



糟目神社

糟目は賀須女と訓べし○祭神在所等詳ならず
私考賂云、上渡刈村塩指社、又宮地村犬頭社未詳と云り、國人守山氏云、上今村の川岸にあり、未孰れか知らず、
神位
文徳実録、仁寿元年10月乙巳、参河國糟日神授從五位下、國内神名帳云、正四位下糟目明神

神社覈録



郷社 糟日春日神社

祭神 天宇受売命 彦火火出見尊 旧と塩指大明神とも奉称す、延喜式内社糟目神社は当社なり、文徳実録に「仁寿元年10月乙巳、参河国糟目神授従五位下、」と見え、国内神明名帳に「正四位下糟目明神、」と見えたり、古老相伝ふ、往昔は大社にして位田を有せしが、世の沿革に随ひ、遂に之れを失ふに至り、徳川幕府時代には、僅かに三石を有するのみと、又参河國官社考集説に云く、
「神主神谷仙大夫云、此社古くは、今の社地より二十間許東川岸にあり、然るを洪水にて社鳥居等までおし流されたる故、天明年中に古城址なる今の社地へ遷ししなり、古の社地には神池ありて、古くはそこ迄汐さし入たるによりて、俗に塩指大明神とも称す、此処の東は額田郡、北は加茂郡、西南は碧海郡にて、此邊几八百間が間の地名を糟目と称す、俗にかすもとも唱ふ、往古は渡苅村の人家もかすもの地にありて氏神なりしを、今の村地にうつし、其虚にも鹿島社を勧請したり、されど社田はかすもの地にあり、亦棟札は流失したるを写したるにて、年月もなしといへり、」
と見えたり、明治5年7月、旧額田縣の命により社號糟目の下に春日の二字を加称、同年9月郷社に列せらる。
社殿は本殿、秤殿、爾覆等を具備し、境内地581坪(官有地第一種)あり、因みに式社糟目神社と称するもの別に一社あり、即ち宮地村の犬頭神社なりとす、然れども国内神名帳に糟目犬頭各別に記するを以て学者これを信ぜず。

明治神社誌料



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