国道1号宮腰交差点西、逢妻川の左岸の低地に神社は鎮座する。 池鯉鮒大明神とも呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社。 知立の語源は茅立(チタチ)であろう。すなわち茅菅の生立つ湿地帯を干拓して造成した所を指すのであろう。 |
由緒 知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社であります。 当神社は、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鵜鵜草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合わせ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申し上げてあります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
重要文化財 建造物 所在地 知立市西町神田12 知立神社多宝塔 指定区分 : 国 所在市町村 : 知立市 所有者 : 知立神社 三間多宝塔、柿葺、1基 嘉祥3年(850)の創建と伝えられ、その後永正6年(1509)に再建されたものである。室町時代の特徴をよく示している。塔高は10m。 明治の神仏分離の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き瓦葺きに直し、「知立文庫」と名をかえて取り壊しの難を逃れた。 http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/museum/exhibit/building/07.html |
知立神社 延喜式内知立神社略記 知立神社は、池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社であります。 抑々当神社は、第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国御平定の砌、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給ひ、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給へるにより、其の報賽のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鵜草葺不合尊、玉依比売命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合せ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申上げてあります。 当神社は斯様な尊いお社柄であリますので、御歴代天皇の御崇敬も厚く、亀山天皇の弘長元年には正一位の神階を奉られ、元寇襲来に際しては、正安2年7月13日附を以て異国降伏の御祈願がかかり、明治元年9月明治天皇御東幸の際には、勅使を差遣して金幣を捧げ国運発展の御祈願があり、又同2年11月11日皇后御代拝参向の節は、神札の献上を命ぜられました。 されば領主を始め諸大名の崇敬も厚く、参勤交替の途次には必ず神札を拝受せられましたが、就中大垣藩主戸田氏は信仰極めて厚く、例祭には遠路わざわざ代参を立てられ、又刈谷藩主は毎年三回参拝奉幣せしめられ、例祭には特に警固の士をも派遣せられました。 当神社は古未「蝮よけ、長虫よけ」「安産」「雨乞ひ」等の霊験いとあらたかにましますにより、崇敬者は全国にあまねく、従って御分社も県内は固より遠く関東関西に亙ってその数夥しく、又大氏神と崇敬して例祭に参拝した村落が古未四十有余にのぼり、現今に於ても当碧海地方一円の大氏神として崇敬を集めさせられて居ります。 例祭は5月3日の午前、知立市内は固より近隣各地よりの崇敬者代表等参列のもとに盛大に執り行はれ、午後には神輿の渡御があり、前日には講社祭、前夜には宵神事が行はれます。そして例祭の前日より当日にかけては、知立五ヶ町より夫々壮麗な山車を曳入れ、車上知立のからくり(愛知県指定有形民俗文化財)知立山車文楽(愛知県指定無形民俗文化財)を操る等の神賑ひもあり、参拝者雲集し実に県下屈指の大祭礼であります。 尚当神社は有名な三河三弘法発祥の霊社であって、其の昔弘法大師が当地巡錫の砌、三七日の間当社に参籠して衆生利益の祈願をこめ、周辺を遊化して所願を果し、将に此の地を旅立たんとせられた時、其の高徳を慕ってで名残を情む民衆のため、当神社の御神木を以て自像三体をきざんで残されたのが、抑々当地三弘法の起りであって、此の特別の縁故により、毎月旧暦21日の三弘法縁日には、当神社に参拝せねば、大師の御精神に副はない、片参りになるとて、数万の巡拝者が腕■長蛇の列をなし、境内と参道をうづめる雑踏は、実に一大壮観であります。 一、摂末社 摂社 親母神社 御祭神 豊玉媛命 同 土御前社 御祭神 吉備武彦命(知立神杜創建の御奉行と伝ふ) 末社 小山天神社。合祀殿。秋葉社 一、由緒ある建物 多宝塔(嘉祥三年慈覚大師の創建と伝へ、重要文化財に指定せられて居る) 養正館(神道中興の聖帝明治天皇お小休みの記念館である) 一、宝物の一部 古額(表に正一位智鯉鮒大明神と彫り、裏に正安三年の銘あり、勅額と伝ふ) 舞楽面(数面あり、往古舞楽神事に使用したもので、優秀な作である) 蛙の型体(往古雨乞神事に使用したものである) 古文書(徳川清康、同家康寄進状其の他数通あリ) 出土品(手烙型土器を始め祝部古瓦等多数あり、主として境内及当神社神宮寺旧跡より出づ) 一、名木名花 しやしやんぽ(神木と伝へ、稀世の古木である) 甘樫(大木十数本あリ、其の実美味である) とねりこ(古木数本あり) 杜若(花盛り五月中旬) 花菖蒲(明治神宮特別御下賜の名花数十品種あり、花盛り六月中旬) 由緒書 |
知立神社 当社は景行天皇の頃の創建と伝え、以来千年以上にわたりこの碧海地方はもとより広く篤く崇敬を集めてまいりました。すでに平安時代『延喜式』神名帳にその名が見え、三河国二宮として国司の祭祀を受け、江戸時代には東海道三社の一つに数えられ、東海道を往来する旅人には「まむし除け」のご神徳で知られ各地にご分社ご分霊が勧請されました。近代以降においては皇室の祖神をお祀りするご縁から国家安寧・家内安全の神社として、今なお多くの参拝者をお迎えしております。 式内社で三河国の二の宮、智(池)鯉鮒大明神(ちりふだいみょうじん)と称されている。創祀は社伝によれば、第12代景行天皇の時、日本武尊が天皇の命を受けて東国平定の折、当地において皇祖の神々に平定の成功を祈願し、無事その務を果たした故に、ここに建国の祖神彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)、神日本磐餘彦尊(かむやまといわれひこのみこと)の四神を奉斎したのが始まりと云う。また、仲哀天皇元年という説もある。 国史上においては、日本文徳天皇實録の仁寿元年(851)十月七日の条に「進參河国知立、砥鹿兩神階 並加從五位上」とあるのがその初見である。これ以降、日本三代實録の貞観18年6月8日条に「授參河国從四位下知立神、砥鹿神並從四位上」とあり、神階を授けられたことが知られる。 なお、当社蔵の正安3年(1301)の扁額には「正一位智鯉鮒大明神」とあり、社伝に「亀山天皇の弘長元年(1261)2月20日正一位を授奉らる」とある。 文明3年(1471)3月に尾州緒川の城主水野直守が社殿の修造を行ない、大永6年(1526)11月に同水野右衛門太夫忠政が修理を行ったが、天文16年(1547)戸田弾正宣光の兵火によって社殿は焼失し、社地を重原村に遷座し、元亀2年(1571)の造営によって社地を現在地に再び遷座した。後、水野信光によって本社を造立し、元和2年(1616)水野正清が修造を行ない、社領十石を寄進した。寛文年中には松平主殿頭忠房により十石が追加寄進された。 朝野にわたって厚い崇敬をうけ、江戸時代は東海道の街道沿いに鎮座することも手伝って、東海道三社の一つにも数えられ、参勤交代の途次諸大名は必ず神札を受けられたと伝える。また、大垣藩主戸田氏は特に崇敬厚く例祭の折は代参を立てるほどであり、刈谷藩主は毎年3回参拝奉幣をしたという。 明治元年9月明治天皇の東幸の際に勅使が差遣され奉幣が行われ、同2年11月11日には皇后の代拝参向が行われ、守札が献上された。 明治5年9月に県社に列せられ、同40年2月28日に神饌幣帛料供進社に指定された。昭和50年12月別表神社に加列。 公式HP |
知立神社由緒 当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路、此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賽のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、元寇襲来に際して異国調伏の勅願あり。明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献ずる等夫々赤誠を捧げた。又衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え、御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝者の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。 御祭神 鵜草葺不合尊 彦火火出見尊 玉依比売命 神日本磐余彦尊(神武天皇) 相殿 青海首命 例祭日 5月3日(元旧暦4月3日) 社頭掲示板 |
知立神社 知立は音読也、和名鈔、(郷名部)、知立、〇祭神吉備武彦命、 (熱田社鎮座記)○池鯉鮒駅に在す、(二葉松、私考略)例祭、 月 日○永万記、鯉付社、〇熱田社鎮座記云、三河國碧海郡知立神社、祭武彦命、」寛平縁起云、倭武命奉命東征、天皇勅吉備武彦與建稻種公服從倭武尊、」日本紀、景行天皇40年7月條云、天皇則命吉備武彦與大伴武日連、令從日本武尊、 或書に、祭神葺不合尊といふは、例の信用しがたき説也、今從はず、 神位 文徳実録、仁寿元年10月乙巳、進参河国知立神階加從五位上、三代実録、貞観6年2月19日丙子、授参河国從五位上知立神正五位下、同12年8月28日戊申、授参河国正五位下智立神正五位上、同18年6月8日癸丑、授参河國從四位下智立神從四位上、」国内神名帳云、正一位知立大明神、 神社覈録 |
縣社 知立神社 祭神 鵜葺草葺不合尊 玉依毘売命 彦火々出見命 神倭伊婆禮毘古命 創立年月詳ならす、但仲哀天皇元年と称するものありといへども、其拠を知らす、当社は延喜式内社にして文徳實録に「仁寿元年冬10月乙巳、進参河國知立砥鹿爾神階、竝加從五位上、」と見え次いで、貞観6年2月19日正五位下、同12年8月28日正五位上、同18年6月8日從四位上奉授」のこと三代実録に見えたるが、後ち累進極位に至らせ給へるにや尾張國内神名帳に從一位と見え、次いで三河國内神名帳に、「正一位知立大明神」正安の古額に「正弍位智鯉鮒大明神」と見えたり、社領は三川雀に「二十俵、時の守護より出る」と見え、三才図会に「社領十石」と見えたるが、三河国官社考集説に、 「永見氏云、当社は往古社頭七百五十石ありしと云伝ふ、天和2年水野隼人正忠清 社田十石を給ふ、寛文年中、松平主殿頭忠房主より十石の社田を寄せられ、今合せて二十石あり、」 と見え、本多光臣の記にも「社領昔より二十石」と見えたり、社殿修営のことは、同じく集説に、 「永見氏云、文明3年3月、緒川城主水野直守修造を加ふ、又大永6年11月水野右衛門大夫忠政主修理を加へらる、然るに天文16年、戸田弾正宣光のために残らす焼失す、依之重原村へ遷座せしを、元亀2年又焼失するにより、尚又今の地に遷座ますといへども、乱世故仮の宮居なり、然るを天正元年、水野下野守信之主、本社を造り玉ふ、元和2年、同隼人正忠清主修理を加ふ云々」 と見えたり、古來近郷二十四ケ村の産土神にして、池鯉鮒の馬市と共に其の名遠近に聞え其の名伯家部類乗穂録、其他名所圓曾等のものに見えざるはなきが、明治5年9月縣社に列せられたり。 社殿は本殿、前殿廻廊、昇殿、祭文殿、神庫、神樂殿、社務所、湯呑所等を具備し、境内地2424坪{官有地第一種)老樹鬱蒼として社殿を綾り、頗る荘嚴を極む、当社には嘉祥3年建立の多宝塔及正安年間の古額其他応永年間の奥書ある古書少からざるが、古來除蝮蛇神札を出す、夏秋の頃山中叢林中にこれを懐中すれば蝮蛇逃る」云々と東海道名所圖曾に見え、氏子二十四ケ村には、まむし、うろこもち絶えて住ます」云々と集設にも見えたり、又当社御手洗池、魚鱗多しといへども殺生を禁ぜられ、旱魃には郷民雨を是に祈る、時に神宝の蛙面を出して池水を注けば忽現応するよし又圖曾に見え、此面古代の作にして、舞樂の具也、此外にも古作の面神宝にあり」と同書に見えたり、因みに当社尾張國内神名帳に「從一位智里府名神と」見えたるより件信友「此地古へ尾張国へ属しことも有しにや」といへるが、乗穂録にも「池鯉鮒社の鰐口に、尾張國知多郡知立神社とある由」見え、熱田宮寛平縁起の首書にも亦其の由見えたりといふ。 明治神社誌料 |