柿崎集落の北のはずれに位置する。 継体1創立という。永禄3年兵火で焼失。織田信長長篠攻めの途中金作りの太刀を奉納という。集落奥の小社でやや高地。周りは畑地。 社地の附近にワシドリと称する耕地ありという。 明治に、愛知県から、和志取神社と称することを禁じられた、氏子・村民の請願により、命令は取り消された。 |
由緒 創建は明らかでない。延喜式内社三河国二十六座の和志取神社と彫む旧石標あり、社地の附近にワシドリと称する耕地あり。「参河国官社考集説」に村上忠準北柿崎村に宇和志取と云う所まことの式社なるべし、と「神祇志科」に柿崎村字和志取あり(宝暦4年田畑名寄帳重原藩取調書)明治7年、西本郷村鎮座、長谷部神社より和志取神社なりと上申あり両者の上申により教部省は8年2月未定の神社と達しあり、止む。昭和3年3月2日字和志取一番無格社熊野神社を本社に合祀した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
和志取神社 社記 1.神社 和志取神社 1.祭神 天日鷲命・伊弉諾命 1.創立年月 継体天皇即位元年 1.由緒 継体天皇即位元年、五畿七道の霊地に神社を建て厚く天神地祇を奉らしめ給う。当社はその一也。古来歴朝の崇敬浅からず、延喜式神社に列し三河国二十六座の一にして旧碧海郡六座中の旧官社たり。 永禄3年兵火に遭い焼失。爾後天正3年まで仮殿遷座にままなりしが、同年織田信長長篠城に向かう途次当社に詣で、みづから金作りの太刀を捧げ戦勝を祈願し、その折り奉行に命じて社殿を再建せしめたり。 即ち武門武将の尊崇厚く国司国守藩主領主の崇敬推して知るべし。 明治15年10月村社に列し、明治40年10月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 即ち氏子58戸の産神にして旧矢作町の崇敬神社たり。 昭和3年伊弉諾命を合祀、昭和27年宗教法人となり、氏子崇敬者の誠心により社殿境内も整備され今日に至る。 社頭掲示板 |