和志取神社
わしとりじんじゃ


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【論社問題】

和志取神社の論社問題についてみてみることにする。まずは柿崎村側の『社誌』からその経緯をたどってみたい。
明治7年5月、和志取神社(柿崎)へ愛知県庁から通達が来る。通達の内容は、「西本郷村長谷部神社今般教部省之指令ニヨリ式内廿六座之内和志取神社確定候」とあって、西本郷村長谷部神社を式内社和志取神社に確定したとの旨であった。通達は、「和志取神社」の社号変更だけでなく「二十六座内和志取神社」と記された標石も改めるよう指示があった。
県からの通達は『特選神名牒』の教部省布告よりも早く出されたが、この事情は後述する。
驚いた柿崎村民は、旧来通り「和志取神社」と称することを県に請願する。6月には改めて愛知県より指令があり、「神璽ヲ初古塚等ニ至マデ古来確証ト可相成廉々不少候」によって西本郷長谷部神社を「和志取神社」と確定したが、柿崎村では社号を変更するには及ばないが、標石の「二十六座内」(式内社)の文字は削除するように指示がなされた。愛知県が「式内社和志取神社」を西本郷村和志取神社に確定した理由は「神璽」「古塚」などの物証であったことがわかる。 
7月には再び柿崎村から愛知県へ請願がなされた。その内容は(1)長谷部神社が和志取神社に確定した際に物証となった神璽そのほかの証拠を再確認することへの許可、(2)柿崎村の田畑の字名に「鷲取」とあるなどの根拠から「式内社」としており、社号が同じながら柿崎だけ「式内社」の文字を削除するのはなぜなのか、(3)長谷部神社は往古「瀬部大明神」と称し、文政年間には「本郷大明神」、明治3年には「長谷部神社」とたびたび改称しており、今新たに「式内和志取神社」と改めるのは真の和志取神社ではない証なのではないかとの三点であった。
(1)(2)(3)については柿崎村側から西本郷村への疑義・反論であるが、(1)については認められ、8月20日には検査官とともに西本郷村に出向き、長谷部神社内殿にある「神璽杉板」(長さ七寸、千鳥六羽を刻む)、虫食いのある素扇、古塚由来記などを拝見し、「皆和志取神号ノ微トスルに足ル者無シト看做ス」として、8月23日に県へ改めて具申を行っている。
こうした争議の事情は愛知県から教部省へ報告がなされていたのであろう、翌明治8年2月には教部省から柿崎、西本郷村双方に対して、西本郷「和志取神社」を「長谷部神社」と旧社号にもどすこと、また「和志取神社」は「式内未定之神社」とする旨の通達があった。柿崎村和志取神社では社号は保てたものの、式内社和志取神社は「式内未定之神社」となったのである。
明治9年8月に一応の完成をみた『特選神名牒』和志取神社の項には以下のように記された。
今按本社所在柿崎西本郷鷲塚高取四村にて互ひに式社を争ひ或は鷲取山又はわしとりの地名ありわし山ありと云は確証あるにあらず地方官にて取調べしに(中略)何れも偽妄顕然たり又鷲塚村なるは検地帳にわし山とありと云ひ村名を鷲塚と云るのみにてもとより和志取の語といと遠ければ信がたし唯柿崎村なる神社地にわしとりの字五ヶ所あり宮の根宮の西宮の北神田など名 宝暦4年田畑名寄帳に記せるもの証とするに足れり猶よく考えて定むべきなり
以上の柿崎村の動向に対して、『社史』から西本郷村側の対応を見てみたい。
明治6年に、愛知県から鷲取権現の祭神である「気入彦命」は長谷部神社の祭神「五十狭城入彦命」と同神であることから長谷部神社に併せて奉るよう「御沙汰」があった。鷲取権現は『参河国官社考集説』によれば蓮華寺傍の「其領主ノ陣屋アリ、ソノ後ノ少シ小高キ処ニ天王社」にあたる。
『社史』では「御沙汰」の発信者を記していないが、これは明治6年3月に出された愛知県布達に関わるもので、「御沙汰」(指示)も愛知県によるものと推測できる。明治6年の愛知県布達は、郷村社をはじめとする官許を受けて創建した神社を除き私的に建てた祠は全て破却を命じるもので「人家ノ屋敷内ニ有之社モ同様ノ事」いう厳しい内容であった。式内社和志取神社の候補地でもある鷲取権現(天王社)が「其領主ノ陣屋アリ、ソノ後ノ少シ小高キ処ニ天王社」であるために、愛知県布達による破却から逃れるために県から出された「御沙汰」と解せよう。既に中央政府(教部省)では、「神社改正一条」制定にあって論社となる神社に対して詳細な調査が求められていたが、式内社和志取神社の有力な候補地である鷲取権現(天王社)を愛知県布達によって破却することは出来ないためその回避措置として長谷部神社に併せて奉るよう「御沙汰」を下したものと推測する。
そこで神璽を長谷部神社へ移し、村民は「式内官社ノ最モ尊フト(ママ)キ事ヲ知リ」、同年(明治6年)に氏子総代より「和志取神社」公称の儀を教部省へ上申した。その後、調査を経て「神璽ヲ初古塚等ニ至マデ古来確証ト可相成廉々不少候」となり、明治7年5月に愛知県から長谷部神社を「教部省の指令に因り」式内社和志取神社に確定したとの指令を受ける。つまり鷲取権現(天王社)の祭神を長谷部神社に合祀するよう県からの指示があって、それを受けて「和志取神社」公称の儀が地元から教部省へ出され「式内社和志取神社」として許可されたことがわかる。その後、6月29日付で教部省から愛知県に対して『特選神名牒』編纂の指示が下る。
愛知県の一連の動きは、明治6年の愛知県布告に対応する形で、県が独断で論社問題となっている式内社和志取神社を処理しようとした意図がうかがえるようにも思えるのである。
しかし先にみたように柿崎村からの猛烈な抗議を受け、明治8年2月には旧社号「長谷部神社」に戻すとの教部省からの指令を受ける。『社誌』では、これを教部省からの再議の指令によるものだとしている。『社史』からは「正史に著しき神社を陷し正史に拠る所なき不確の神社柿崎村元白山社を採用せらるゝに至りては神明に対し奉り神祇崇敬の實断ち難し」と憤慨の念がうかがえ、再び県へ請願を行った。その結果、編纂された『特選神名牒』では、和志取神社は「式内未定之神社」となった。明治12年1月には「式内神社御調査」が済むまで長谷部神社を「未定式社和志取」神社と称することを認めるように県へ願い出て(『社誌』)、同3月には長谷部神社を「和志取神社」と称することが認められている。
しかし和志取神社が「式内未定之神社」であることは変わらず、明治40年10月には柿崎村、西本郷村双方の「和志取神社」が神饌幣帛料共進社に指定されている。こうした争議のなか、明治40年9月には柿崎村が『社誌』を刊行し、翌年1月には本郷村が『社史』を編纂するに至る。なお現在も柿崎村、西本郷村双方が「和志取神社」と称しており、今日でも論社問題については未解決のままである。
愛知県岡崎市和志取神社蔵女神像について−近代式内論社と文化財− 長 谷 洋 一





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