足島神
たるしまのかみ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】生嶋巫祭神二座 並大。月次。新嘗。

   【現社名】宮中三殿 神殿
   【住所】東京都千代田区千代田1−1
       北緯35度40分54秒,東経139度44分59秒
   【祭神】足島神
   【例祭】春季神殿祭 春分日   秋季神殿祭 秋分日
   【社格】
   【由緒】貞観元年生島神正四位下
       「神殿」の「天神地祇」中に祀られていると見るべきである

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は宮中に祀られる

   【祭祀対象】
   【祭祀】継続しているか不詳
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

生嶋巫祭神二座、生島神・足島神は同じ神格の威力をイク・タルと対にして表現したもの。日本全体の国魂を表現したものであろう。
平常の祭り神祇官西院の北庁で行われた。
八神以外の座摩巫祭神・御門巫祭神・生島巫祭神、宮内省・大膳職・造酒司・主水司に坐す神が、東京奠都後も宮中に祀られたかどうかについては、「祭紀録」等には徴すべきものがないが、「神殿」の「天神地祇」中に祀られていると見るべきである(元掌典川出清彦氏教示)。


宮中三殿 神殿

旧神祇官八神殿の祭神と天神地祇を祀る。
明治に再興された神祇官(のち神祇省)は付属の神殿を創建し、天神地祇および古代の律令制での神祇官の八神殿で祀られた八神を祀った。八神殿の八神とは延喜式によると「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」とされる。神祇省の廃止に伴い、宮中に遷座して、神殿と改称した。




足島神

生島足島の二神は、一代一度の臨時祭たる八十島祭に当つて主祭せられた。同祭は、文徳天皇以来鎌倉初期に至るまで、多くは大嘗祭の行われた翌年に、難波海辺に祭場を設けて、国土の恢弘と玉体の安固とを祈られたものである。
二条城の東北にあったとされるが現在は廃社となっている。



御巫たちの神殿奉祀

延喜式神名帳に「神祇官西院坐御巫等祭神廿三坐」とされる神々に奉祀する御巫とは神に奉仕する童女とされ7歳以上の女子が任ぜられ嫁ぐときに(15〜6歳か)交代したという。
「御巫祭神八坐」に奉祀する御巫は「大御巫」と呼ばれ、2人は大和国造から出したと言われている。
また「座摩巫祭五座」の御巫は「都下の国造(難波の国造か)」から出したと言われている。
「御巫の遷替ごとに神殿以下を改め換えよ」とされ、御巫が交代するたびに建物をすっかり建て替えていたようである。



生島神 足島神

生島は前に同じ、」足島は多留之麻と訓べし、」祝詞式(祈年祭祝詞)には、生國足國と書り、○祭神生國神、足國神、○旧事紀、(天皇本紀)神武天皇元年、復生島是大八洲之霊、今生島御巫齋祀矣、(古語拾遺亦同)祝詞考(同上)に、生島は地の名、此生國足国は、國を知ます神の、御功を称へ申なり、といへり、
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授神祇官無位生島神、足島神並從四位上、2月11日丁酉、奉授神紙官從四位上生島神、足島祇並正四位下、
前件二柱の神を祭れる事は、当時すら明かなるを、旧事紀に大八洲之霊とのみありて、此神號を載せざるは、坐摩神と同じく故ある者なるべし、大八洲の霊は、即ち國魂をいふべし、此神は摂津國東生郡難波坐生國國魂神社二座(並名神大、月次、相嘗、新嘗)とあるが本社也どいふ、また和泉國大島郡生國神社(鍬靫)信濃國小縣郡生島足島神社二座(並名神大)も同神なるべし、抑此二神は、前なる御巫坐摩御門巫等の祭神と、同じき御あしらへなれど、神嘗祭の外は、別祭には預り給はざる也、
○上件坐摩御門生島等の巫祭神十五座の事、此初めに神祇官西院坐とありて、まがふことなきやうなれど、神祇官の古図を考ふるに、西院には八神殿、齋戸殿、(一名祝部殿、又祝殿)正庁の外殿舎なし、古文書曰、神祇宮祝部殿事、一名齋部殿、只如神殿、懸御簾引壁代、立濱床安青賢木、(同伝云、祝部殿者、御巫等宿所、仮令今世御子等、號神殿如致祈祷之所也、無指細物也、)又曰、兼敦按之、御厨子祝部殿、共以無神座勧請之儀、但祝部殿案上安賢木、云々、可存如在体歟、(図考証所引用)と見え、四時祭式(神嘗祭條)に、御巫奉齋神祭云々、御門巫奉齋神祭云々、坐摩巫奉齋神祭云々、生島巫奉齋神祭云々、右御巫以下諸祭、並於神祇官齋院祭之、と見えたり、是に依て連胤按るに八神殿の外は社なし、ただ空座にて、彼齋戸殿にて賢木を安置し、御形代として祭れるなるべし、然て祈年月次新嘗等祭の幣物に、社と前とは差別あるが故に、かく社の在が如くに戴せられたらん、是等の事荒廃なくぱ弁をまたぬ事なるを、悲きかな、今に及びていかがはせむ、

神社覈録



詳細ボタン

宮中INDEXへ        TOPページへ



順悠社