宮中三殿
きゅうちゅうさんでん


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【宮中三殿】

宮中三殿とは、皇室の御祖神(みおやがみ)である天照大御神をお祀りする「賢所」(かしこどころ)、歴代の天皇・皇族の御霊をお祀りする「皇霊殿」(こうれいでん)、天神地祇(てんしんちぎ)・八百万神(やおよろずのかみ)をお祀りする「神殿」(しんでん)の三殿の総称で、更に新嘗祭が行われる神嘉殿(しんかでん)が、この三殿と一体になって建っています。 宮中三殿は吹上御苑の東南に南面して建てられており、賢所を中央に、その西に皇霊殿、東に神殿が建てられ、各殿とも入母屋妻入、向拝を付した素木造で、正面には木階があり、その前面には石階が付されています。また、内部は内々陣、内陣、外陣に分かれており、それ以外の部分も含め社殿としての構造は三殿とも同様ですが、中央に位置する賢所は、その左右に位置する皇霊殿や神殿よりも一尺高く造られています。



【賢所(かしこどころ)】

三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を依代として皇祖・天照大御神一柱を奉斎する御殿で、「畏(おそ)れかしこむべき所」という意味から「賢所」と称されています(但し、八咫鏡の実物は伊勢の神宮に奉安されており、賢所に奉安されている八咫鏡は後述のように実物の分身として模造された御神鏡です)。
天照大御神は、御自身の御孫に当たられる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が葦原中国(日本の国土)を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に天降られる時、「皇孫を中心として地上に建てられるべき国が末永く栄えていくように」との御言葉をお示しになり、八咫鏡をお授けになって、「この鏡を我が御魂として祀り国の繁栄を祈念するように」と御命じになられました。歴代の天皇はこの御教えを守り、皇居の中に御神鏡(八咫鏡)をお祀りして、只管国の発展を祈念し続けられました。これが賢所の始まりで、宮中に賢所が鎮座される事は、日本書紀に見られる所謂「同床共殿の神勅」により明らかです。
第十代崇神天皇の御代には、世の乱れと共に神威を畏れて御神鏡は同床共殿ではなく豊鍬入姫命に託けて皇居の外でお祀りされるようになり、そして次の垂仁天皇の御代には、倭姫命は更に良い鎮座地を求めて近江、美濃の国を経て伊勢の国に至り、そこで天照大御神のお示しを受けて御神鏡は伊勢の地(五十鈴の川上)に奉斎されました。これが伊勢の神宮の始まりで、国家の発展に伴い天照大御神は宮中にお祀りされるに留まらず、伊勢の地で広く国民全体からの崇敬を受けられるようになったのです。そして、御神鏡が伊勢の地に御遷座された事に伴い、それに代わる新たな御鏡を造って宮中にお祀りし、これが現在に連なる賢所の始まりと云われています。
賢所は、平安時代には、中国で鏡を出す所の名である温明(うんめい)という言葉に関連して「温明殿」と称されたり、また、内侍(ないし)と云われた女官が近侍して奉仕した事から「内侍所」とも称されました。天徳4年(960年)、寛弘2年(1005年)、長久3年(1042年)には火災等の御被害も受けられましたが、畏み奉斎の伝統は継承され、明治2年3月、東京への遷都に伴い、賢所も京都の御所から東京の皇居へと遷座されました。
なお、賢所(かしこどころ)の名称は、その奉斎御殿や、そこに奉斎されている御神体御自体の事を指しますが、宮内庁が用いる賢所(けんしょ)という名称は、三殿を含む御構内一帯を指します。


【皇霊殿(こうれいでん)】

初代神武天皇はじめ歴代の天皇、皇后、皇妃、皇親の御霊が奉斎されている御殿で、明治2年12月に竣工した神祇官神殿に奉斎されていた皇霊が明治4年9月に宮中に遷座されたのがその始まりです。
皇室の御先祖の陵墓は、大和周辺、京都の泉山、東京都下の多摩陵、武藏野陵など各地に散在しておりますが、これらの陵墓が一般の“お墓”に当るものだとすれば、皇霊殿は、皇居の中に設けられた皇室の“祖霊舎(みたまや)”に当るものといえ、崩御・薨去の1年後に合祀されます。
中世には、京都御所御黒戸に歴代天皇の御尊を安置して女官らが仏式で奉仕し、また、神祇伯白川家では八神(神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神)と共に歴代天皇の皇霊が神式で奉斎されていましたが、明治2年、明治天皇は祭政一致の叡旨を以って国是の確立を御奉告の御趣で、天照大御神はじめ天神地祇八百万神、また神武天皇はじめ歴代天皇の御神霊を神祇官に設けた霊代に招き祭り御拝になり、これが、明治維新以後、歴代天皇の皇霊が神式で奉斎された最初と見られています。
同年12月、神祇官(明治4年に神祇省に改変)に仮神殿が建てられて、その中央の座に八神、東の座に天神地祇、西の座に歴代天皇の皇霊がそれぞれ奉斎され、そして明治4年、前述のようにその神祇省神殿から歴代天皇の皇霊が、宮中の賢所へ、相殿の形で奉遷され、これが現在の皇霊殿となりました。
当初は賢所と合わせて「皇廟」と称され、歴代天皇の御霊のみお祀りされていましたが、明治10年1月の元始祭の日に、皇后以下皇族の御霊も合祀されるようになり、そして、明治33年4月に公布の皇室婚嫁令に「皇霊殿」と記されるようになって以降、一般にも皇霊殿と称されるようになり、またそのように記されるようになりました。
ちなみに、京都御所御黒戸にあった歴代天皇の霊牌や仏像等は、明治6年、皇室の菩提寺である東山泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)に移され、現在は同寺にて奉祀されています。


【神殿(しんでん)】

天神地祇八百万神が奉斎されている御殿で、明治5年3月に神祇省の廃止と共に宮中に遷座したのがその始まりで、三殿の中では最も後に成立しました。
前項で記しましたように、明治2年6月、明治天皇は国是の確立を、天照大御神はじめ天神地祇八百万神と、神武天皇から孝明天皇に至るまでの歴代天皇の皇霊に御奉告のため、神祇官に霊代を設け招き祭らしめられ、御拝されました。そして同年、神祇官に神殿を設ける事が決まり、同年12月に仮神殿が竣工し、その中央の座に八神を、東の座に天神地祇を、西の座に歴代天皇の皇霊がそれぞれ奉斎され、鎮座祭が斎行されました。
明治4年8月、神祇官が廃され神祇省が置かれ、それに伴い神祇省に継承された神殿(西の座)に奉斎されていた歴代天皇の皇霊は宮中賢所に奉遷されましたが、八神と天神地祇は引き続き神祇省の神殿にお祀りされました。しかし、翌5年に神祇省が廃止され新たに教部省が置かれる事になり、そのため同年3月、神祇省神殿に奉斎されていた八神と天神地祇を宮中に遷し仮に賢所拝殿に奉安せしめ給う旨仰せ出され、それを受けて同年4月、神祇省の神殿に奉斎されていた八神と天神地祇、及び京都の神祇伯白川家、神楽岡の吉田家斎場、有栖川宮家の旧邸と新邸にそれぞれ鎮座されていた八神を、御羽車に移し、賢所拝殿に奉遷しました。
翌5年、八神と天神地祇の両座を合祀して一座とし、「神殿」と改称され、これによって現在の宮中三殿の原型が成立しました。
【出典】宮中三殿の出典はhttp://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080308





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