神祇官西院の西北に八神殿として八社南北に東面して並んでいた。足産日神は第五殿に鎮座していた。 古図(伯家部類)によると各社殿は独立しており、南北十丈、東西三丈、朱(あけ)の玉垣を東南北の三方に囲らし、東面三か所(北第一殿、第五殿、第八殿の前)に鳥居を設けていた。 各殿内には御体はなく、ただ賢木(榊)をおいたという。 現在は宮中三殿の内の神殿に祀られている。 |
宮中三殿 神殿 旧神祇官八神殿の祭神と天神地祇を祀る。 明治に再興された神祇官(のち神祇省)は付属の神殿を創建し、天神地祇および古代の律令制での神祇官の八神殿で祀られた八神を祀った。八神殿の八神とは延喜式によると「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」とされる。神祇省の廃止に伴い、宮中に遷座して、神殿と改称した。 |
足産日神 足産日神は、霊魂の活動を満足ならしめる徳ある神の意である |
御巫たちの神殿奉祀 延喜式神名帳に「神祇官西院坐御巫等祭神廿三坐」とされる神々に奉祀する御巫とは神に奉仕する童女とされ7歳以上の女子が任ぜられ嫁ぐときに(15〜6歳か)交代したという。 「御巫祭神八坐」に奉祀する御巫は「大御巫」と呼ばれ、2人は大和国造から出したと言われている。 また「座摩巫祭五座」の御巫は「都下の国造(難波の国造か)」から出したと言われている。 「御巫の遷替ごとに神殿以下を改め換えよ」とされ、御巫が交代するたびに建物をすっかり建て替えていたようである。 |
足産日神 足産日は多留武須毘と訓べし、」四時祭式、(鎭魂祭條)祝詞式(祈年祭祝詞)等には、足魂と書り、○祭神詳ならず(連胤按るに、十種神宝の一なる足玉の霊なるべし、上に同じ、)祝詞考に、足魂は、生魂神の和魂なるべし、云々、饒速日命自天降る時、天の神の授給へる、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇此礼、蜂此禮、云々、十種神宝の中、四つは、即こゝの生魂より、下三神と、言も功も、均しきをおもふに、天皇の御命長く、御稜威足ひ、また死たる魂をよみかへらせ、黄泉の道より、反りなどし給ふ、かの伊邪那伎命の、御功有神たちなりけり、と云り、」連胤按るに、かく云るは、即ち此玉の功を神といはへるにあらずや、さるをまた、おぼろげに説をさめたるは、いはゆる古轍に泥みての事ならん、今考るところ爰にきざせるをや、〇古事記伝三の巻、淤母陀琉神の注に、神祇官坐御巫祭八神中の足産日神と申すは、此神なるべし、此七代十二柱神の中に、ただ活杙神と此淤母陀疏神とをのみ、取分て彼八神の列に収て祭り給ふことは、彼八神は、もはら天皇の大御身を御守護のためなれば、活と申し足と申す神霊の由縁を以てなるべし、と云るは、覚束なき事上の件に同じ、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授神祇官無位足産日神從一位、同年2月丁亥朔、神祇官従一位足産日神奉授正一位、 前件三柱の神の出処、明かならざるによりて、先達等こもごもの説あり、何れ的当れるや志らず、」連胤按るところ前の如し、是も更に発明せしにあらず、」諸社根元記に、玉積産日神(足産霊尊)生産日神(生産霊尊)足産日神(足玉産霊尊、道反大神)といひ給ひ、旧説みな然り、さるはかの出処に迷ひて云るものなるべし、やがて足産霊は、足産日神あるを玉積産日神とし、足玉産霊道反大神は、足産日神とさせる、こは何によれるにや、すべて神代巻、旧事紀等に見えたる、神達ならではと思へるより、いよ狭く推量りて、かくはいへる也、されど道反大神を引出されたるを見れば、爰の八神は、鎮魂祭の神なる故を、心付て云るなるべし、さては十種神宝の意をとらざらむ、また眞淵が、十種神宝の中なる玉の、音も功もここの三神と均しくといひ、宜長が、天皇の大御身を、御守護の為の、八神の御事なればなどいへるは、此処に近き考へなるに、足魂は生魂の和魂なるへしといひ、活杙神面足尊の、活と足との文字の上に泥める、是いかなるまがこゝろのさし出つらんと、あやしく思はるゝもの也、篤胤は、この三前は、疑ひなく伊邪那岐神の謂ゆる、司命に坐す神霊を、三柱に齋ひ給へるにぞ有けると云り、深く昧ふべし、 神社覈録 |