神産日神
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   【延喜式神名帳】御巫祭神八座 並大。月次。新嘗。中宮。東宮御巫亦同

   【現社名】宮中三殿 神殿
   【住所】東京都千代田区千代田1−1
       北緯35度40分54秒,東経139度45分1秒
   【祭神】神産日神
   【例祭】春季神殿祭 春分日   秋季神殿祭 秋分日
   【社格】
   【由緒】応仁の頃には、内野では神祇官・大内を残す、と記され
       文明の頃には、本官(神祇官)旧跡と見え、全く廃絶に帰した
       天正18年(1590)神樂岡吉田神社の内に八神殿を祀った
       慶長14年(1609)吉田神社をもつて神祇官代とせられた
       明治元年(1868)閏4月、神舐官を桜田門内に再輿
       明治2年(1869)12月八神殿(仮神殿)を神祇官内に造営
         同時に白川・吉田両家に奉齋されていた八神殿の霊代を奉献させた
         神殿の中央に八神を、東座に天神地祇を、西座に歴代皇霊を奉齋した
       明治5年(1872)11月八神殿の称を廃して単に神殿と称した
         八神・天神・地祇を三座として奉斎
       同六年(1873)皇居炎上、よつて赤坂の仮皇居内に遷座
       同27年(1889)赤坂の仮皇居から新三殿(宮中三殿)に移御

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は宮中神祇官西院に祀られる

   【祭祀対象】造化三神中の一
   【祭祀】継続して祭祀されてきた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

神祇官西院の西北に八神殿として八社南北に東面して並んでいた。神産日神は最北の第一殿に鎮座していた。
古図(伯家部類)によると各社殿は独立しており、南北十丈、東西三丈、朱(あけ)の玉垣を東南北の三方に囲らし、東面三か所(北第一殿、第五殿、第八殿の前)に鳥居を設けていた。
各殿内には御体はなく、ただ賢木(榊)をおいたという。
現在は宮中三殿の内の神殿に祀られている。


宮中三殿 神殿

旧神祇官八神殿の祭神と天神地祇を祀る。
明治に再興された神祇官(のち神祇省)は付属の神殿を創建し、天神地祇および古代の律令制での神祇官の八神殿で祀られた八神を祀った。八神殿の八神とは延喜式によると「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」とされる。神祇省の廃止に伴い、宮中に遷座して、神殿と改称した。




神産日神

天地開闢の時、天御中主神・高皇産霊神の次に高天原に出現し、造化の三神の一とされる。本来は性のない独り神であるが、造化三神の中でこの神だけが女神であるともされる。



御巫たちの神殿奉祀

延喜式神名帳に「神祇官西院坐御巫等祭神廿三坐」とされる神々に奉祀する御巫とは神に奉仕する童女とされ7歳以上の女子が任ぜられ嫁ぐときに(15〜6歳か)交代したという。
「御巫祭神八坐」に奉祀する御巫は「大御巫」と呼ばれ、2人は大和国造から出したと言われている。
また「座摩巫祭五座」の御巫は「都下の国造(難波の国造か)」から出したと言われている。
「御巫の遷替ごとに神殿以下を改め換えよ」とされ、御巫が交代するたびに建物をすっかり建て替えていたようである。



神産日神 高御産日神

神産日は加牟美武須毘、」高御産日は多加美武須毘と訓べし、(古点也)』四時祭式、(鎮魂祭条)祝祠式(祈年祭祝詞)等には、神魂高御魂と書り、○祭神明か也、○旧本紀神代巻上、一書曰、天地初判、(中略)又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊、次高皇産霊尊、次神皇産霊尊、(皇産霊、此云美武須毘)」古事記(神代段)天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神、次高御産巣日神、次神産巣日神、」旧事紀、(神代本紀)七代、生天神、(中略)別高皇産霊尊、(亦名高魂尊、亦名高木尊(下略))次神皇産霊尊、(亦名神魂尊)』古語拾遺に、天地割判之初、天中所生之神名、曰天語中主神、次高皇産霊神、(古語多賀美武須比、是皇親神留伎命)次神皇産霊神、(是皇親神留彌命、此神子天児屋命、中臣朝臣祖也)」〇日本紀神武天皇巻に、昔我天神、高皇産霊尊、大日霊尊、挙此豊葦原瑞穂国、而授我天祖彦火瓊々杵尊、」又云、款道臣命、今以高皇産霊尊、朕親作顯齋、用汝為齋主、授以厳姫之號、同4年春2月壬戌朔中、詔曰、我皇祖之霊也、自天降鑒、光助朕躬、今賭虜巳平、海内無事、可以郊祀天神、用申大孝者也、乃立霊時於鳥見山中、其地号曰上小野棒原、下小野棒原、用祭皇祖天神焉、(古事記に高倉下夢に、天照大神、高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔云々、とあるも此縁なるべし)、
旧説に八神殿の起り也、八神殿に日神なきは、高木神と同殿に祭る故、別に殿を建ざるか、日神は天皇御同殿御同体に齋祭り給ふ也、といへり、」連胤按るに、八神殿は、もとより天皇が御寿命を守ります神の御魂に、朝御食夕御食たゆる事なく、奉仕らむ神等を加へてかの鎮魂に祭るなれば、こゝに日神を齋くべき由縁は非る也、日神は崇神天皇の御世まで、牀を同くし殿をひとつにしてあれませれぱ也、○祝詞考(賀茂真淵撰)頭書に、古事記、日本祀ともに、高御魂、神魏とあるを、神祇官には、神魂を先に申来しにや、貞観元年正月の紀にも、この祝飼と同じくあり、と云り、」連胤按るに、惣て神の祭りかたは、後世より道理をおしていふとは、いたく違えるが多し、爰も其一也、祈年祭の幣にも、高御産日神と大宮女神のみ、馬一匹加へられし事なども、いかなる由縁かはかり志られず、○古事記伝三の巻に、神産巣日神は、高御産巣と並びたる御名なれば、此も必神御とあるべきことなり、延喜式出雲国造神賀辞にも高御魂神魂命、また祈年祭詞にも神魂高御魂、また御巫祭神八座の中なるも、神産日神高御産日神とある、此等に此二柱を並挙たるに、何れも神魂の方には御字無し、故なるに、凡て古音に同音の二つ重なるをば、約めて一つに云例此彼とあれば、これも神御と美の重なる故に、多く約めて申しならへるなり、と云り、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授神祇官無位神産日神、高御産日神並從一位、同年2月丁亥朔、神祇官從一位神産日神、高御産日神、並奉授正一位、

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