赤城神社
あかぎじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】赤城神社(名神大) 上野国 勢多郡鎮座
          (旧地)赤城神社【旧地】

   【現社名】赤城神社
   【住所】群馬県前橋市三夜沢町114
       北緯36度29分4秒、東経139度10分41秒
   【祭神】大己貴命 豊城入彦命
   【例祭】5月5日 例祭祭
   【社格】旧県社
   【由緒】履中天皇御宇の創祀
       承和6年(839)6月従五位下「続日本後紀」
       貞観9年(867)6月20日正五位下「三大実録」
       同11年12月15日正五位上
       同16年3月14日従四位下
       元慶4年(880)5月25日従四位上
       康和5年(1103)6月神事に穢れがあり中祓
       嘉応2年(1169)神田寄進
       建長3年(1251)4月26日火災
       貞治6年(1367)造営
       至徳3年(1386)造営
       慶長18年(1613)2月牧野忠成社領寄進
       慶安2年(1649)正月酒井忠清黒印状
       宝暦12年(1762)東宮が正一位
       明和2年(1765)西宮が正一位
       明治2年11月東宮即ち現社殿造営
       同4年郷社
       同12年県社
       昭和19年国幣中社昇格の内示

   【関係氏族】上毛野君
   【鎮座地】当初の鎮座地は二之宮町の二宮赤城神社の地
        その後元三夜沢に遷
        さらに現在地に遷

   【祭祀対象】赤城山の自然信仰に発するという
   【祭祀】江戸時代は赤城大明神」「三所明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       中門・拝殿・神樂殿・惣門・神饌所・手水舎・社務所・氏子会館

   【境内社】
   【神宮寺】西宮は神光寺、東宮は龍赤寺


赤城山の自然信仰に発するといわれ、6世紀中頃は赤城山南麓に大型古墳が築かれ、上毛野君の奉齋神として発展したものと思われる。
当初の鎮座地は二之宮町の二宮赤城神社の地と思われ、その後元三夜沢に遷し、さらに現在地に遷したと思われる。
江戸時代以前は東・西の二つの宮からなり、小沼・大沼の神は、粕川の上流の粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)に祀られていたのを、戦国時代にこの地に遷し西宮とし、今までここにあった地蔵岳信仰の神社は、東宮とした。江戸時代には東・西の両宮がならんでいた。現在の本殿は、明治2年に東宮の跡に東西両宮を併せ造営され、1社とした。
特殊神事として4月・12月の初辰日に御神幸祭がある。もと神衣祭と称した。二宮赤城神社より三夜沢赤城神社へ神鉾(神体)・神衣を奉じた神輿が渡御し、途中大胡神社(旧称近戸神社)と柏倉の御輿掛に休憩する。三夜沢では本殿にて祭典を執行し、再び神体等を奉じて還御する。


山宮・里宮の関係では、赤城山大沼の大洞赤城神社が山宮、二宮赤城神社(前橋市二之宮町)が里宮にあたるとされる。中社は三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)とされる。ただし三夜沢赤城神社の旧地(元三夜沢)が山宮だとし、三夜沢(元三夜沢)と二之宮が山宮・里宮関係にあるとする説、あるいは大洞が山宮で二之宮・三夜沢の両社はともに里宮だとする説もある。
また地蔵信仰が追加された14世紀ごろに、三夜沢赤城神社の東宮が、地蔵を祀るものとして現在地に成立した。その後、貞和元年(1345年)頃元三夜沢にあった西宮が東宮の場所に移転し、三夜沢赤城神社は東西2宮で構成されることになった。


由緒

関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その何面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。
赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜570mである。
赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野にのぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけて見えていて王冠のようである。その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」(おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。
神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭祀の遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望むことができる。 赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ一千百年余り前の仁明天皇の承和6年(西紀839年)のことである。その時に従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。延喜式の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏文書には正一位と記してある。
このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配していた上毛野君という一族がまつっていたからである。上毛野君は豊城入彦命の子孫と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任務としていた。日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味のことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」という意味のこともしるしている。
つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろに従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業の神とが、赤城神の起源と考えられる。
鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」ということが見えている。その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰をあつめていたから、このような伝説が起こったのである。
神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたので、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東西両宮が並んでいた。このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃であろう。
しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。殊に由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。また大胡氏はまず大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主となった牧野氏も土地を寄進している。
参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まっている。年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべきものである。現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せて一社とされた。昭和17年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持されてきている。
分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでいる。現在のもののみで、群馬県に一一八社、埼玉県に二十三社、栃木県に九社、茨城県に十社、新潟県に十三社、福島県に十一社、その他を合せて計一九一社であり、合併または廃社を合せると三三四社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も多い。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




三夜沢赤城神社のたわら杉

群馬県指定天然記念物
三夜沢赤城神社のたわら杉
昭和48年4月25日指定
 赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロなどもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通り周5.1m、6.1m、4.7m、根元周6.0m、9.6m、5.6mとなっており、樹高は各々約60mです。これら三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。
 たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将ですが、その実像はあまりわかっていません。
 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄として描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。
 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカデと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴しています。

社頭掲示板



赤城神社

祭神 赤城神 大己貴命 豊城入彦命
赤城神社は東国開拓の神々が祭られている古来の名社で在る。
東国経営に当たった上毛野君の創祀以来、国司、武将が篤く崇敬し朝廷からも承和6年(839)に従五位下を贈られ、元慶4年(880)に従四位上にあげられ、延喜式には名神大社に列せられた。長元元年(1028)頃には正一位に叙せられ、ついで上野国の二宮とうやまわれていた。 赤城山は高く、美しく、うしろに山々をひかえて、悠然と聳えている。山頂の小沼からでる粕川を始め各河川は麓の村々を広く潤している。
その尊厳と恩恵とは「みやま」と呼ばれ親しまれ尊ばれ上毛野君の昔から祀りつかれてきた。
分社は群馬県下のみで七十八社その他を合わせると三百余社に及ぶ。昭和19年には国弊中社に昇格の内定があったが、終戦後は国土建設、開拓精神の発揚のため神威ますます顕著である。

社頭掲示板



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