平安期より徳川時代の末期に至るまで神仏習合の時代が続き、満行宮榛名寺などと称えていた。 箕郷町(旧箕輪町)西明屋字椿山の椿名神社は旧鎭座地との伝承がある。 (ただし現在は椿名神社は存在しない箕輪小学校東北の墓地となっている地と云われているが不詳) 椿名神社は榛名山を背にして、榛名神社と由縁をもち、大豪族の居住が推定できる地に鎭座している。現社地は深山幽谷にあり、神佛習合が比較的早く進んでいたことから、平安時代に密教徒により移座されたものと思われる。 古代は群馬西郡に居て榛名山を祀つた豪族車持君が祀ったとする。 明治3年、岩鼻県少属新井守村は文永5年の洪鐘をはじめ仏像仏具を焼却し、地藏峠の地藏菩薩像を谷に落して神仏分離を徹底した。 |
由緒 第31代用明天皇元(丙午)年紀元1246年(西暦586年)、創祀と伝えられ、延喜式内の古社で上野十二社の六の宮である。南北朝時代から座主執行の二職が置かれ、徳川時代の末期に至る迄神仏習合の時代が長く続き、東叡山上野寛永寺の管下に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理して居たが、明治初年神仏分離の改革により榛名神社に復した。 御祭神 火産霊神(ほむすびのかみ)[鎮火・開運] 埴山姫神(はにやまひめのかみ)[五穀豊穣] 例祭5月15日 社殿は寛政4年(190年前)の改築、周囲の巨厳と調和して建立されたもので荘厳の極致を表している。御祭神は社殿の後ろに立てる御姿岩の洞窟中に祀られている。榛名神社の太々御神楽(神代舞)三十六座は享保時代(約270年前)以前より伝えられたもので、その舞と拍子は極めて荘重古雅で昭和27年3月無形文化財に指定されている。 御宝物と古文書 大織官藤原鎌足公真筆経文一、小野道風の真筆経文一、平相国清盛公真筆経文一、庁宣一、足利持氏の許状(応永30年3月28日)一、鎌倉御所入道知行書一、長野伊予守立願書一、鎌倉執事上杉憲房の制札、同上杉憲政の制札一、武田信玄の高札 鏡之部 八ツ花形(鏡経六寸白銅製奈良朝以前の物という)一、円形鏡(経五寸四分乳鏡)一、円形鏡(経八寸裏に松喰鶴の模様あり)一、円形懸仏(経八寸七分十一面観世音細線の像あり奈良朝の物という)一、円形懸仏(経八寸四分裏に大檀那源氏女弘安4年8月とあり)一、円形懸仏(経六寸五分裏に富士権現とあり) 随神門(旧二王門) 1847年(弘化4年)上棟、棟梁は埼玉県宮内の関根修理、神仏分離までは二力士像があって雲慶の作と伝えられていた。 矢立の杉 四百年前武田信玄が箕輪城(城主長野信濃守)攻略のみぎり矢を立て戦捷祈願せられたる杉の巨木で周囲十米余、枝南七米余、北五米余ありさながら天をつくが如くである。近くに矢の久保、のぞき岩等の古戦跡がある。昭和8年文部省一般史蹟に天然記念物として指定されている。 双龍門 八棟造りの建物で、原山宿大工棟梁清水和泉の建立したもの、彫刻は熊谷宿長谷川源太郎の作で、中国の三国史から取材したものである。 尚榛名神社社殿(幣殿、間殿、拝殿)国祖殿、額殿、神楽殿、双龍門の七棟及び鉄燈篭(元享3年奉納)一基は昭和57年4月20日、県より重要文化財として指定せられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
榛名神社 榛名神社の歴史 榛名神社の神事 御祭神 御宝物と古文書 鏡之部 榛名神社の歴史 榛名神社の起源 延喜式 延長5年(972年)に完成したこの記録には、全国の主要な神社名を書きあげた『神名帳』があり、その中に上野国十二社の群馬郡小社として榛名神社は位置づけられています。この記録に登載された神社は「式内社」と呼ばれ、格式の高い神社と考えられています。これが榛名神社が歴史書の中で取り上げられた最初だといわれています。したがって、この時すでに「式内社」といわれるほどの神社に榛名神社は成長していたことがわかります。 その他十世紀から十二世紀にかけて著された『三宝絵詞』『上野国交替実録帳』『僧妙達蘇生注記』などからも当時の榛名神社の様子がうかがえます。 榛名神社巖山遺跡 近年、榛名神社境内で小金銅仏(地蔵菩薩立像)、寛平大宝(皇朝十二銭の一つ)、錫杖頭部、鉄釘、鉄鏃、甕、坏などの破片(土師器、須恵器など)等の遺物が採集され、建物の礎石も確認されたことから、この遺跡は寺院跡であると考えられています。土器片には九世紀のものも含まれていますので、遺跡もその頃のものと考えられます。 中世の榛名神社 【榛名山邨誌と頼印大僧正行状絵詞】 中世の榛名神社の動向はこの両書によって知ることができます。記録によれば、快良が承元4年(1210年)初代座主になり、以来、関白道長の子孫が代々受け継いだと記されています。座主が一山を支配していたのです。そして、南北朝の動乱に連動した榛名山座主職をめぐる抗争により頼印が応安4年(1371年)座主になっています。頼印以降の支配者は、現存する中世文書によるものと思われ、支配者というよりはむしろ支援者と考えられます。戦国時代には座主職も置かれず、衰微の一途をたどっていたようです。 近世の榛名神社 【寛永寺と榛名神社(榛名山巌殿寺)】 近世に入り天海僧正の手により榛名山は復興されたといわれています。慶長19年(1614年)「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降、寛永寺の支配を受けるようになり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されました。後には両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺などと書かれることもありました。 学頭や別当が赴任する場所を「別当所」といいました。この役所は、榛名山の信仰と政治の中心であり、学頭や別当には一山を支配する権限が与えられていたようです。その下に三役人という衆徒五ヶ院、吟味役、年寄、という職が置かれていました。重要山務はこの三役人が協議の上別当にうかがいをたてて決めました。さらにその下には脇年寄、行事、山見役、神楽頭取などの役もありました。衆徒五ヶ院は、神護院=中之坊、満福院、金剛院、円乗院、実相院のことをいいます。 行事は、文化年間(1804〜1818年)から置かれています。祭儀のときの世話役で平之者から最初は入札で二人を選び任命しました。人員は四人のときも六人のときもありました。任期は二年でした。 山見役は朱印地の管理がその仕事で、毎日二人で組み、山林を巡回しました。異状があれば月番役所へ報告しなければなりませんでした。平之者から四人ほど選ばれたといい、祭礼その他諸役は免ぜられたといいます。 平之者は、吟味役、年寄、脇年寄以外の一般の御師のことをいいます。 御師とは、御祈祷師の略称であり、崇敬者のために祈祷やお札を授与する人のことをいい、それぞれ宿坊を営んでいました。史料では天正八年(1580年)の文書に榛名山御師光吉の名があり、すでに御師の立場が確立されていたことがうかがえます。 【榛名講】 榛名神社の辻札や祈祷札、午王札、嵐除、虫除、筒粥の札などのお札を受けに毎年榛名神社を訪れる村々の講中のことで、現在でも関東一円にその広がりを持っています。村々からは、講中全員が毎年参詣しているわけではなく、二、三人の者が代表として選ばれ参詣するのです。このことを代参講と呼んでいます。代参講の村で全員の登拝が完了すると、それを記念して神楽を奏上するところもあります。その時は特に太々講と呼んでいます。太々講には他に奉納金を積み立てて奏上するものや奉納金を案分し、その案分された額を負担する人を募集して奏上するもの(万人講、入会講)等もあります。 講組織には雨乞講もあります。代参講の村はもとより、それ以外の村からくることもあります。榛名神社の「御神水」の入った竹筒を神前に供えて請雨の御祈祷えおしてもらい、その御神水を村に持ち帰り、雨乞の行事を行います。榛名神社の雨乞は非常に効力があったといいます。 【神楽(榛名神社神代舞】 享保11年(1726年)の丙午還暦大祭のとき再興されたといわれています。演目は三十六座であり、男子舞が二十一座、八乙女舞が十五座です。山中一同協議の上神楽師二十四名を選び、神楽株組織をつくり、その組織を二組に分けて交替で神楽を演じるように定められていました。 神仏分離と榛名神社(近代) 【神仏分離と神道の定着】 慶応4年(1868年)3月、神仏分離令が出され、同年5月東山道鎮撫総督から鎮撫軍に恭順するよう促す通達を受けて、榛名神社の神仏分離の動きがあわただしくなります。7月には別当や衆徒五ヶ院を除く御師だけの集会が頻繁にもたれて、その善後策が話し合われ、8月晦日に堂塔、仏像、仏具の取り片付けの言い渡しが岩鼻役所からあり、9月4日光明寺立ち会いのもとに什物等の受け渡し行われ、榛名神社として復活することになりました。 【新居守村と神仏分離】 明治3年(1870年)5月10日、岩鼻県から神仏分離取締に任命された新居守村が赴任して、仏教的なものをすべて破壊するよう指導し、実行させました。このとき、榛名神社から仏教色は一掃されたといわれています。現存している三重の塔も守村は壊すと書いていますが、残されました。 【神仏分離後の社家町の変遷】 神仏分離令に引き続き、明治5年(1872年)修験宗廃止令により、呪術、祈祷が禁止され、明治7年、配札勧財取締の通達により、檀那場に配札して生活の糧を得ていた各御師は、収入源を大幅に閉ざされました。その対策の一つとして、明治6年(1873年)、八本松から惣門まで続いていた、榛名神社の杉並木の伐採許可を群馬県令に提出し、その許可を得て伐採しました。 また、別当所中心の支配構造がくずれ、求心力を失っていた榛名神社を立て直すために、一同協議の上、「榛名神社教会」を開設する旨内務卿松方正義と群馬県令に願書を提出し、明治14年1月11日認可され、教会は設立されました。1月11日はそれを記念して現在も「教会開き」という祭典を執行しています。昭和27年(1952年)に宗教法人「神道大教榛名大教会」と改称され、宿坊も講社と称して祭儀行事を行うとともに、榛名講の村々との結びつきを維持し、配札や祈祷など崇敬者の教化育成に努めています。 宿坊はもともと宿泊施設の機能を完備しているので、榛名講中の減少分を補填するため、明治42年(1909年)「榛名山避暑旅宿協同組合」を結成しています。宿泊料や待遇などの協定事項等が定められていたのです。その後、協定事項に榛名神社周辺の案内も加味した「榛名山避暑案内書」なども印刷され、各方面に配布されました。 公式HP |
榛名神社 当社は第31代用明天皇元年の創祀で延喜式内社である。徳川時代の末期に至るまで神仏習合の時代が続き、満行宮榛名寺などと称えて、上野寛永寺に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理していたが、明治初年神仏分離の改革によって榛名神社として独立した。御祭神 火産霊神 埴山毘売神 社殿は寛政4年の改築。御祭神は後に立っている御姿岩の洞窟中に祀られている。神代舞は250年前から伝えられたもので国の無形文化財に指定されている。 社頭掲示板 |
榛名神社 榛名神社社殿(幣殿 間殿 拝殿〉 文化3(1806)年の再建(手前が拝殿、奥が幣殿で両者をつなぐのが間殿。幣殿・拝殿ともに入母屋屋根で権現造屋根は鋼版葺。目貫の鷲、左右海老虹梁の二龍ほか彫刻が多い。 格天井の花草飛龍の絵は仙台藩の絵師根本常南の筆。 祭神は火産霊神、埴山毘売神。 国祖社 天保12(1841)年修復。間口三間、奥行五間。 もと榛名山西部の御祖霊嶽にあったものを、いつの頃からか本社のそばに摂社として祭るようになったと伝えられている。神仏分離以前は本地仏を安置し、本地堂とも呼ばれた。 祭神は豊城入彦命・彦狭島命・御諸別命。 額殿 創建年月日不詳。本来は神楽の拝見所であるが、大小の、「太々御神楽」の扁額を掲げてあることから額殿とも呼ばれている。 双龍門 竣工は安政2(1855)年。間口十尺、奥行九尺。総欅造り。四枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されていることから双龍門と呼ばれるようになった。 羽目板の両面には「三国志」にちなんだ絵柄が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めている。 棟梁群馬郡富岡村清水和泉、彫刻武蔵熊谷宿長谷川源太郎、天井の龍は高崎藩士矢島群芳の筆。 神楽殿 明和元(1764)年11月の再建。方二間の高床形式。神に奉納する神楽を演じる場所であり、本殿と向かいあい、床の高さを同じくする。棟梁は佐藤直右衛門。 鉄燈籠 竿の部分の銘文によると元亨3(1323)年に沙弥願智が大工芳十光長に作らせ奉納したとある。 材質が鉄であることや基礎の唐獅子が浮き彫りにされている格狭間の形状などに鎌倉期の特徴がよく表れている。 鉄燈籠としては県内最古。なお、笠の部分は後世の補作。 昭和57年4月20日指定 群馬県教育委員会 榛名町教育委員会 社頭掲示板 |