榛名神社
はるなじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

榛名神社(はるなじんじゃ)
鎮座地   群馬県群馬郡榛名町榛名山849
主祭神   火産霊神(ほむすびのかみ)      火の神
      埴山毘売神(はにやまひめのかみ)  土の神
合 祀   水分神  大物主神  木花開耶姫神
御神徳
天下泰平、国家安穏、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、鎮火、開運、縁結び、安産守護の神として崇敬を受けているのに加え、近年は火と土の神様であることから、土木、電力、電気、通信機器、陶磁器などの関係者の守護神として振興も盛んになっている。
由緒
社伝によれば可美真手命父子が榛名山中に神籬を立て、天神地祇を祭ったのを始めとし、用明天皇元年(585)丙午の年に祭祀の場が創建されたといわれています。
延長5年(927)完成の延喜式神名帳に上野国十二社のひとつとして位置づけられていた由緒ある神社で、古くから神仏習合が定着し、境内地の山中には9世紀頃の僧坊と思われる厳山遺跡があります。建久元年(1190)上野国司留守所にあてた下文によれば鎮護国家恒化修良の霊地として榛名寺領内に健児・検非両使の立ち入りが停止されるなど保護の手がさしのべられていました。
中世には上野国六の宮と位置づけられ、南北朝時代は山内でもそれぞれの勢力と結びついて主導権争いが展開されました。結果として、北朝に組していた頼印は榛名山の支配者になり、さらには鎌倉に移り主要な寺院の要職に任命され、頼印と室町幕府の関わりから榛名山は室町幕府の手厚い庇護を受けることになります。
1298年、上野国神名帳利根郡の部に、寶高大明神は従一位に、薄根大明神は従二位にその御名がみえており、その神階の高さからみると、朝廷の崇敬が大変篤く、土地の人々からも崇敬されている大社でありました。
寶高大明神とは倭建命で、もとは現在の沼田公園内に鎮座され,沼田一帯の総鎮守でありました。また、薄根大明神は菅原道真命で、古来より現在の社地に鎮座され広く崇敬を受け、その参道は梅樹並木でありました。それぞれのお宮がそれぞれの場所で、崇敬され親しまれてきたのですが、享禄2年(1530)沼田万鬼斎顕泰は、新たに城(倉内城)を寶高大明神の社地に建てることを決め、現在の場所にお遷し申し上げました。その時に同時に、すでに幕岩城内に勧請されていた顕泰の妻の産土神である埴山姫命をお遷しして、この三大神を一社に奉祭し、ご社殿を建立しました。その後、元和元年(1615)真田信之公はご社殿を改築され家紋の六紋銭を御扉の上に描き、現在に至っております。
しかし、それよりも遥か昔、正応3年(1290)に奉納された梵鐘に、臼根郷春名権現の名が見えるのは、必ずしも顕泰のときに榛名の名が始まったとは限らないといえるかもしれません。その後、榛名大権現として一帯の総鎮守と称えられましたが、神仏分離令により、明治2年、榛名大神と改めました。尚、明治5年,氏子分離の訴訟があり,群馬県の論示により、上之町・中町・下之町・坊新田町・鍛冶町・馬喰町は須賀神社の氏子に改め、今に至っております。 以後,明治6年郷社に定められ,昭和3年縣社に昇格致しました当地方きっての神社であり、産業推進の神、家屋交通の神、文運保健の神として、ご神威は広く輝いています。また、諏訪大神は,古来、瀧棚(今の上町)に鎮座され、寛政年間に榛名神社の西に鎮座せられましたが,明治41年,合祀されました。尚,ご社殿は,現在、上久屋神社のご社殿となっています。当社は、沼田氏・真田氏・本多氏・土岐氏と代々城主の崇敬を受け、数々のご奉納の記録がありますが、現在も、本殿御扉の上には真田家の家紋である六文銭がはっきりと描かれています。
また、本多豊前守ご奉建の鳥居も現存しています。

由緒書






戻るボタン


上野国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録