社伝によれば、碓氷郡に物部姓の磯部氏が奉斎し、その南方の鏑川沿岸を至って蓬ケ丘綾女谷に定め祀られたとある。 古くは貫前神社、鎌倉時代から江戸時代にかけては、抜鉾神社、明治以降は現在の貫前神社と称している。 本来「抜鉾」「貫前」は別神と考えられている。 抜鉾神は、男神・経津主神で、物部氏の系統をひく祭神で、群馬、碓氷、甘楽郡の西上州を中心に栄えた物部氏の氏神となった。一族は同時に鏑川流域の最高峰・稲含山の雷神を信仰していたという。 貫前神は女神で、多野郡から甘楽郡の鏑川沿岸にいた帰化人が氏神としてまつっていたとされる。この神は農業と機織り、水源の神として厚く信仰されたという。 総門より下り参道になっており、参道を下った低地に社殿が位置している。 式年遷宮が行われており、申年の12月12日の真夜中、参道上の広場に建立された仮社殿に遷座され、酉年の3月に元の本殿に戻る神事が繰り返されている。 |
由緒 一之宮貫前神社 上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。 「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、一之宮貫前神社は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、開運、治安、農耕、機織、縁結び、安産の神として県内はもとより、遠近の人々に信仰され親しまれている。 神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、西に神津荒船の連山を仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、北斜面の下り参道をおりて参詣するという全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、恰も日光の東照宮を見るような華かなもので、小日光と呼ばれている。 御祭神 経津主神、姫大神。 経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である。 姫大神は祭神不詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。 由緒 社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが安閑天皇元年3月15日である、天武天皇白鳳2年3月15日初度の奉幣があり、清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、神位の昇る毎に書き改めて今に残っているものに正一位勲五等抜鉾神社とあり、即ち勅額で楽翁公の集古十種に記されている。 醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆め、武家時代に至って、武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、奥方連中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。 明治4年国幣中社に列格、昭和21年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称し現在に至る。 この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和9年)皇族方の御参拝等御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者踵を接する。 社殿と境内 現在の社殿は徳川三代将軍家光の命により改築したもので、寛永12年(約330年前)の造営である。元祿11年、五代将軍綱吉が大修理をした、江戸初期の総漆塗精巧華麗な建造物というだけでなく、その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点から重要文化財(旧国宝)に指定されている。 拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、実に徳川家の抱え大工が日光廟という世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。 境内は約26000坪、北斜面の森林で、本殿裏に樹令約1200年の杉の御神木があり、一名藤太杉とも云う、その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の数即ち36本を植えたと称するもので、現在はこの御神木一本だけが残っている。 西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、観音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え昔は遥か南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。 宝物 総て四百点余、鏡、武具をはじめとして、御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰を語るに足る諸品を蔵している。 鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の各時代を通じて大観し得るものとして金工美術上珍重されている、内重文に指定されているものは次の通り。 白銅月宮鑑、唐鏡、約2000年位前の作。 約360年程前文禄3年頃小幡竹千代の乳母奉納 梅雀文様銅鏡、約760年前、鎌倉時代 竹虎文様銅鏡、約500年前、室町時代 御神衣、六十余領残存、元和9年以来遷宮毎に新調奉納 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
一之宮貫前神社 群馬県富岡市一ノ宮 高崎駅より上信電鉄乗換一ノ宮駅下車 徒歩十分 御祭神 経津主神 姫大神 経津主神は遠く神代の昔、天祖の命をうけ武甕槌命と共に出雲国大国主命より天孫のためにその国土を奉らしめた方で、建国の功神である。 姫大神はその縁由明らかでないが、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。 由緒 今から1400余年前、安閑天皇元年3月15日の創建と伝えられ、爾来朝野の崇敬厚く、延喜式内社で上野国(群馬県)の一ノ宮である。 明治4年国幣中社に列し、社格廃止に伴い一之宮貫前神社と称す。 社殿 徳川三代将軍家光の命により寛永12年造営、江戸初期の精巧華麗な建物で総漆塗極彩色、本殿、拝殿、楼門は国の重要文化財に指定されている。 社頭掲示板 |
一之宮貫前神社 由緒 御創建は社伝によりますと、碓水郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎し、次いで南方鏑川岸に至り、蓬ヶ丘綾女谷にお祀りしたのが安閑天皇元年(531)3月15日と伝えています。 天武天皇白鳳2年(674)3月15日に初度の奉幣があり、醍醐天皇の延喜の制には名神大社に列せられ、上野國一之宮として朝廷や民間の崇敬を衆め、明治4年國幣中社に列格されましたが、終戦にともなう社格制度の廃止により、一之宮貫前神社と称し現在に至っております。 現在の社殿は、徳川3代将軍家光公の命により寛永12年(1635)の御造営で、江戸初期の華麗な造りで、特に本殿、拝殿、楼門は国の重要文化財に指定されています。 御祭神 経津主神(ふつぬしのかみ) 姫大神(ひめおおかみ) 経津主神は物部の氏神で、大照大神の命を受け武甕槌神と共に出雲國の大國主神より天孫のために国土を奉らしめた神で、古来より武の神、建国の祖神として信仰されています。 姫大神は御名は不詳ですがおそらく綾女庄(一之宮地方の占称)の神で養蚕機織の守護神と考えられています。 ◆全同的にも珍しい登って下る参道。 ◆雷神小窓 元禄11年2月の本殿修復の節に江戸桜田の絵師梶川政利が描いたもので、幾つかの伝説を生み信仰の対象となっています。 ◆蛙の木 太平洋戦争末期、境内の樹木に蛙の形をした茸(サルノコシカケ)が出たのを「勝ち蛙」と呼び多くの参拝者がありました。現在は「無事蛙」と呼ばれ父通安全のお守りになつています。 ◆太々神楽 縁由詳かではありませんが、往古出雲大社の社家より、24座が伝承されたと伝えられています。奉納日 元旦・3月15日 御神事 祭典は年間71度あります。 例大祭 3月15日 月次祭 毎月1日 御戸開祭 3月14日 10月12日 鹿占神事 12月8日 式年遷宮 12年毎 仮殿遷座祭 申年の12月12日 本殿遷座祭 酉年の3月13日 ◆宝物館(有料) 貫前神社では400点余の宝物を所蔵し、その一部を宝物館にて展示しています。 なかでも奈艮時代以後の鏡167面が奉納され、「白H銅月宮鑑」「梅雀文様鏡」「竹虎文様鏡」は国指定重要文化財に、その他は富岡市重要文化財に指定されています。 由緒書 |
一之宮貫前神社 ■ はじめに ■ 『一之宮貫前神社』(いちのみや ぬきさきじんじゃ)は群馬県富岡市一ノ宮にご鎮座の1400年の歴史を持つお社です。 御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神」(ひめおおかみ)の二柱で、現在の社殿は三代将軍徳川家光公の命によって建てられました。 (江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は国の重要文化財に指定されています) また、年間祭儀が71回あり御戸開祭(みとびらきさい)や鹿占神事(しかうらしんじ)など古くからの祭儀が数多く残るのが特徴です。 ■ 御祭神 ■ 経津主神 (ふつぬしのかみ) 経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえる、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。 比売大神 (ひめおおかみ) 比売大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっていませんが、一説には綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神と云われています。 ■ 御由緒 ■ 社伝には鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。 また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。 奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。 醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。 旧社格は国幣中社。 ■ 境内案内 ■ 貫前神社の境内を画像や解説を交えて紹介致します。 ■ 諸祈願 ■ 貫前神社では年中無休にて諸祈願を受け付けております。 公式HP |