【2神2社説】 史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。 抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説で、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になったとする。実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている。 『群馬県の地名』では、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としている。 |
【文化財】 重要文化財(国指定) 本殿(附 棟札) - 明治45年指定 拝殿、楼門(附 棟札) - 昭和51年指定 白銅月宮鏡 - 宝物館に保管。明治45年指定 銅鏡2面(梅雀文様、竹虎文様) - 宝物館に保管。大正6年指定 国選択無形民俗文化財 鹿占習俗 - 昭和55年選択 群馬県指定無形民俗文化財 鹿占習俗 - 昭和56年指定 富岡市指定文化財 有形文化財 奉納鏡 - 平成9年指定 唐銅製燈籠 - 平成9年指定 天然記念物 スダジイ - 昭和60年指定 |
【貫前神社唐銅製燈籠】 富岡市指定重要文化財 貫前神社唐銅製燈籠 平成9年4月23日指定 高さ約395cmの一対の銅製燈籠で、慶応元年(1865年)製作、慶応2年にここに建てられた。 燈籠の基礎部と竿部の間に、燈籠建立の際の献納者名・居住地・献納額が二段に刻まれている。 献納者の人数は合計で1544名、献納額は総額4790両にのぼり、地元の多数の養蚕農家をはじめ、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納している。 本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製糸業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、7年後に開業した旧富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる貴重な文化財である。 社頭掲示板 |
【社殿(本殿、拝殿、楼門、東西廻廊)】 現在の社殿は穂川三代将軍家光公の命による寛永12年(1635)の造営である。 「元禄11年(1698)五代将軍綱吉公の命により大修理した」江戸初期の極彩色総漆塗の精巧華麗な造りであるだけでなく、本殿の構造が単層二階建の俗に「貫前造」という当社独特の社殿形式と「雷神小窓」と称す小窓が設けられていることから、明治45年旧国宝、昭和25年国指定重要文化財に指定されている。拝殿、楼門(昭和51年国指定重要文化財に追加指定)及び東西廻廊は、同時代の建築である。 摂社「抜鉾若御子神社」 抜鉾若御子神社は安閑天皇の御代に現われたと伝え上野国神明帳に従五位抜鉾若御子明神と記載されている。明治38年に一ノ宮字若宮の地より現在地に遷座され、現在の社殿は棟札によると文化12年の建立と伝う。 社頭掲示板 |