竃山神社の境外末社。かっては竈山神社 より格式は高かった。 新羅征伐の頃はこの地にかなりの海軍が住んで奉齋していたものと想われる。 紀ノ川の流れが北に移り、周囲の海が無くなって衰微した。 伊達神社、志摩神社 と共に紀州三所神と呼ばれ、従って五十猛命、大屋都比売命、都麻都比売命の三神を祀る三神一連の神社。 近世初期には廃絶しており、享保8年(1723年)和歌山藩によって薬師山(前山・天霧山;現社地)に社殿が再建され、竈山神社が管理したという。 |
静火神社 天霧山にあり 舊地は是より東一町半許田中字靜火といふ地にあり 今の地に遷坐の年暦詳ならす 當社大に衰癈して殆滅に至りしに享保9年(1724年) 國命ありて其ノ舊地に碑を建て靜火社舊地の五字を鐫み又當社方三尺五寸 を造營ありて神鏡を納ね社地示等を定めらる抑此ノ神の和田郷に鎭り坐せる事國造家舊記等に著明なり 然れとも永仁(1293年)以前既に癈絶せりといふ 國造家記曰境内に草ノ宮といふあり9月15日草ノ宮の廰にて靜火祭といえる神事あり暦應應永(1394年〜)の神事記に見えたり若は徃古靜火大神草ノ宮へ神幸の時の祭式にて右社退轉ノ後も草ノ宮にては9月15日の儀式はのこれるにや 祀神或ハ曰火雷ノ命或ハ曰火結ノ神又曰常州久慈郡靜ノ神社と同神なりといふ 皆神名の文字によりて説をなす 他に稽據なし 按するに古記の國字に書せしはしちゐ或ハシツヰと書けり是古稱なり 是に據るに靜火は地名と思はる 此より東南二十町許に朝日村五箇荘あり 阿左韋と稱ふ 靜火は此に對せる名にて志豆韋と稱ふへし 朝日村より和田村まて平野の中に溝渠を穿ちて南北二所に樋あり 樋地中に入る事淺く露を以て淺樋といふ文字を朝日と書て村名とす 樋地中に在を以て下樋とするならん 應永(1394年〜)検注帳に樋免といひ樋ノ提數なといふものあり 今も此邊溝渠を穿ち樋を作る所多し 古の形状思ひ合すへし 然して此神伊達志摩二神と合せて紀三所ノ神と名く 承和(834年〜)以後位階を授けられるゝことあるに必三神相連る位階を授けらるゝ事貴志荘園部村伊達神社の條に載せたれは此に贅せす 是を以て考ふるに伊達を一ノ宮とし志摩を二ノ宮とし靜火を三ノ宮とすと見えたり 祀神都摩都比賣ノ命なるへし或は大屋津姫ならんか猶詳に神社考定ノ部に辨す 紀伊続風土記 |