古来、祭神が三種の神器につぐ宝鏡とされたため、平安時代以降伊勢神宮に次いで皇室から特別に扱われた。日前神宮、国懸神宮の両社は、同一境内に相並んで鎮座、西に鎮りますを日前神宮、東に鎮りますを国懸神宮と称し、ともに南面して鎮座してている。両社は各独立の別社のことであるが、由緒が共通の点が多く、別けて考え難い。 神代の昔、天の岩窟の変に際し、天照大神、素盞鳴尊の荒びを怒って天の岩戸に隠し時、思兼命思慮りて、大神の象を造りて招禧き奉るべしとて、石凝姥命を治工とし天の香山の銅を採って鋳造したが、神達の御意に合わず、再び鋳った鏡がその形状美麗なるによつて、これを五百箇真坂樹に懸けて大神を招き出した。その初度に鋳ったのが即ちこの両神宮の御霊代で、後の鏡は伊勢神宮の御霊代として祭祀しされている八咫鏡である(日本書紀)。 古来神階を奉られたことなく、勲位を授けられたこともなく、他社とその取扱いを異にされていた。また古来より、天道根命の裔たる紀伊国造によつて奉齋せられ、連綿として今に伝えている。 天正12年(1584)小牧山合戦の時、国造紀忠雄、徳川家康に味方して、郷民等を催し、根来の僧徒等と諜し合せ既に泉州に出陣していたが、豊臣秀吉怒つて紀伊に乱入し、根来寺を焼き、国造家累代の太田城を水攻めにし、社領を破却し、神領を没収したが、忠雄は両宮の神体を奉じ、神宝旧記を随身して、高野山麓、丹生神社の地に逃れられたが、軍兵退散の後、両宮を旧社地に奉安せられた。 |
国懸神宮 元官幣大社 日前神宮 國懸神宮 御鎮座略記 日前國懸神宮(日前宮)御鎭座略記 和歌山市秋月鎭座 b 日前神宮 祭神 日前大神 相殿 思兼命・石凝姥命 國懸神宮 祭神 國懸大神 相殿 玉租命・明立天御影命・鈿女命 御由緒 謹みて按するに日前大神國懸大神は天照陽乃大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからさるなり太古 天照大神の天の岩窟に幽居ましゝ時群神憂ひ迷ひ手足措く所を知らず諸神思兼神の議に從ひて種々の幣帛を備へ大御心を慰め和はし奉るに當り石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る。 これ伊勢大神宮奉祀の八咫鏡 日前神宮奉祀の日像鏡 國懸神宮奉祀の日矛鏡となり而して天孫降臨し給ふに當り日像鏡日矛鏡を以て紀伊國造家肇祖天道根命に授け給ひ宝祚の無窮を祈らしめ神武天皇天道根命を以て紀伊國造となし給ふの時神鏡を名草郡毛見郷に奉祀す毛見の濱の宮是れなり 垂仁天皇16年神詰に據りて同郡萬代官に遷し奉り永く鎭座の地として今に至れり是を以て日前神宮奉祀の神の御名を日前大神と称へ奉り國懸神宮奉祀の神の御名を國懸大神と称へ奉る共に天照大神と御同体に座しますなり故に紀氏歴代奉仕し上下の尊崇殊に厚く一般には日前宮と称して親みを持ち今に至る。 然るに中世御炎上の事あり加ふるに天正の兵乱に侵されて境内神殿とも甚だしく荒廃したりしを南龍公入國の後廃を興し社殿を建立せられ明治四年神格の制を治定さらるゝや勅して官幣大社に列し以て敬神尊祖の大義を示し給へり然れとも社殿其の他の施設尚未だ往時を忍ぶに足らず大正八年國費を以て境内建物全部の改善工事を施工せられ大正15年3月を以て工を完うす。 御神徳 日前宮は紀伊之國一之宮にして天照陽乃大神を祀る日前國懸大神はその御別名にましまして太陽の御徳を蒙り生とし生ける凡てのものに御蔭を戴き生々発展をなし人々の縁を結びうけい(結婚)の徳をさずけ生活の基本を守り給ひ古来より深き信仰を持つ 境内摂末社 摂社 天道根神社 祭神 天道根命 御由緒 天孫御降臨の時天道根命從臣となり齋祭す 其の後神武天皇即位2年春2月天道根命に紀伊國を賜はり國造職に補せらる明治10年3月21日官命を以て日前國懸両神宮摂社に定めらる。 摂社 中言神社 祭神 名草姫命 名草彦命 御由緒 往古より境内に鎮座す國造家譜に曰く名草彦命は天道根命第5代大名草彦命並大名草姫命を祀り中言社と称す名草郡の地主の神なり 故に郡村の神社に此神を祭る最も多し明治10年3月26日官命を以て日前國懸両神宮摂社に定められ地主の神として尊崇さる 一、境内末社 20社 一、境内総坪数 約20000坪 祭儀 大祭 祀年祭 2月17日 例祭 9月26六日 新嘗祭(新穀感謝祭) 11月23日 中祭 歳旦祭 1月1日 元始祭 1月3日 紀元節祭 2月11日 御鎭座祭 4月8日 天長節祭 12月23日 小祭 月次祭 毎月1日 成人祭 1月15日 節分祭 2月節分日 大祓 6月30日 夏祭 7月26日 除夜祭 12月31日 由緒書 |
国懸神宮 創建2600餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。 日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し、國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。 神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。 その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。 天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。 その後、崇神天皇51年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇16年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。 爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。 また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。 戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治4年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。 しかしながら、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばず、大正8年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、大正15年3月の完成をもって現在の姿となっております。 日前宮は紀伊國一之宮にして天照大御神を奉祀しております。 日前國懸大神は、その御別名でありまして太陽の恩恵を蒙り、生とし生ける凡てのものに御蔭(神様の力添え)を戴き、日々の生活に活力を得、人々のえにし(良縁)を結び、うけい(結婚)の徳を授け、生活の基本を守る家内安全の御利益を賜ることから古来より深い信仰を持っております。 公式HP |