豊玉彦命は古くは牟婁郡大田荘浦神村の塩釜六社明神社の地に鎮座した。この地に旧浦神と称した神が坐したが、何れの時にか那賀郡池田荘神領村へ遷座した。その旧地に小祠を建てなお浦神神社と称して産土神としたが後世塩釜明神を勧請して産土神とし浦神社を末社とした、今も境内に浦神の小祠ありという。 本殿向かって右に末社あり。社名表示無いが(浦神神社=浦上神社)と思われる。 |
塩竃神社 社記によると「往昔、浦上国津姫を奉祀す、よって地名浦神の起る所以也と云う」とある。 後に那賀郡池田の荘に御遷座せられ、その跡に小祠を建てて、末社として祀るという(年代不明)。 次に、塩竃六社大明神を勧請して産土神として奉祀す(年代不明)と伝えられる。 宝物多々あったが、寛文のころ(1661―73)紛失すという。 本殿は、元禄2(1689)年9月25日御遷宮とある。 明治6(1873)年4月村社に昇格、明治40(1907)年4月神饌幣帛供進神社に指定される。 明治43(1910)年9月12日、厳島神社及び蛭子神社2社を合祀する。 平成15年10月本殿を造営する。 例祭には、獅子舞神楽(勇義社)が奉納される。 また、当社では古い伝統をもつ「御弓祭」(別名「背見祭」)という神事がある。 その祭は、当日神職の射儀がすんだ後で、お的につけた背見(藁で背見鯨の形を造ったもの)3個を元気のよい若者3名裸体で、揃いの白腹巻をしめて背見を競い取り、奪った者は若衆宿(今は青年倶楽部)に走って持ち帰り、それを肴(さかな)にして祝盃をあげるのである。 一般の人達は的の骨組にしている「そぎ」を奪い合い、これを自家の入口(玄関)に差して厄除けとする習わしがある。 近年は的の骨組に「そぎ」を使わなくなったので「そぎ」の奪い合いの賑いは見られなくなった。 この神事は、昔、浦神浦は有名な捕鯨場であった由縁から起ったものであろうといわれ、悪魔祓いと豊漁祈願を目的とした年頭祭儀であることは明らかである。 和歌山県神社庁 |