柴離神社は反正天皇柴離宮跡と伝う。同社の拝殿裏、幣殿に向つて左側に祀られている。 万葉集の次の二首は、田坐の地を詠んでいるものと考えられ、古代の田園地帯の景観が知られる。 鶴がねの聞ゆる田井にいほりして 吾旅なりと妹に告げこそ 春霞棚引く田井にいほりして 秋田苅るまで思はしむらく |
田坐神社 柴籠神社は仁賢天皇の勅命により創建され、第18代反正天皇(瑞歯別命)・菅原道真・依羅宿禰を祭神として祀られている。 またこの付近は反正天皇の皇居、丹比柴籠宮祉と考えられており、記紀(古事記・日本書記)によるとその時代は天下泰平、五穀豊穣の平和な時代であったと記されている。 平安時代に清和天皇より幣帛を賜わり、南北朝時代の足利直義、戦国時代の河内国守護畠山氏も厚く保護したと記録されている。 明治5年(1872)神仏分離により、境内の神宮寺広場山観念寺は廃寺となり、本尊は上田の観音堂に釣鐘は願正寺へ、また明治40年(1907)に大塚山古墳にあった天満宮(大塚社)を合祀し、同時に手水鉢も当社へ移された。 社頭掲示板 |
田坐神社 開運松原六社参りのひとつ。社伝によれば、6世紀前半に24代仁賢天皇の勅命で創建されたという。18代反正天皇・依羅宿根・菅原道真を祀る。 本地は5世紀前半、反正天皇がミヤコとした丹比柴籠宮の跡と伝える。『古事記』によると、反正天皇は生まれた時、珠のような美しい歯を持っていたので瑞歯別命と名付けられたとある。社務所の真向かいに歯神社があり、毎年8月8日の夜8時8分に万燈籠のもと、歯の神様の祭礼がとり行われるが、これは天皇の歯が立派であったことに由来する。 社務所の場所には、明治初年まで神宮寺の広場山観念寺(真言宗)があった。南門は観念寺の山門である。拝殿右側には慶安5年(1652)、左側には寛文11年(1671)の石燈籠が建つ。江戸時代前半、井原西鶴は同社に参詣して「柴籠宮むくけうへてゆふ柴垣の都哉」の句を詠み、『河内鑑名所記』(延宝7年、1679年)に載せられている。 拝殿に嘉永7年(1854)8月、立部村氏子26名が奉納した「三十六歌仙図」が掛かる。 参集殿前には「天満宮享和元年(1801)9月」と刻した手水鉢が置かれているが、これは全国で5番目に大きな前方後円墳の河内大塚山古墳(西大塚)の石室材と考えられる。墳丘上に祀られた菅原神社(明治41年に柴離神社に合祀)の手水鉢に転用されていたものである。 社頭掲示板 |
柴籬神社 柴籬宮跡 当跡は大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)のほぼ中央に位置し、古の松原荘の内にて大和政権の第18代反正天皇の皇居跡で、五年間この地に都を置き河内王朝最後の都として、また古事記、日本書紀に丹比柴離宮とあるは、即ち本宮であります。 記、紀によるとその治世は平穏にして穀物は豊作で人民は富みにぎわい、平和な時代であったと記されており、諸殿の跡なる地名として極殿山、大門、中門、学堂、若宮、反正山、東宮、堂経、中橋、高見などの字が残り、大正6年には大阪府教育委員会より史蹟に指定され、現在では大阪府教育委員会より、これらの地域を埋蔵文化財分布地に指定されております。 神社について 御祭神18代 反正天皇(はんぜいてんのう。別名 瑞歯別命・ミズハワケノミコト){正殿}菅原道真公(相殿)依羅宿禰(相殿)当社は24代仁賢天皇の勅命により創建され後世慶長年中に兵火により焼失、その後寛永年中に宮代代宮寺観念寺2代目住持覚夢(寛永四年没)によって再建され今日に至っております。 第五十六代清和天皇の貞観六年(864年)には、宝幣を給はり、観応2年(1351年)足利直義が祈願参詣し、戦国時代の河内国守護畠山氏も信仰篤くして当社を保護し、旧幕時代には京都御所より菊花御紋章幕一連を賜わり、江戸時代にはあの浮世草子で名高い井原西鶴も再三再四参詣して、当宮の狂歌を数々残し、明治22年には政府より紙僕幣吊を給ふ指定があるなど非常に歴史古くして由緒深く尊い宮であります。 昔は一時広庭神社及び天満宮と称したる頃もあり、神悌混合のときには、境内に神宮寺広場山観念寺もあり、明治5年神悌分離により廃寺となり、同寺の釣鐘は上回願正寺に移り、本尊十一面観世音は上田の観音堂に移転し、僅かに神宮寺の往時の姿を止むるものとしては、今の南門と絵馬堂のみであります。 公式HP |