田坐神社(田井城 )
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   【延喜式神名帳】田坐坤社 河内国 丹比郡鎮座

   【現社名】田坐神社
   【住所】大阪府松原市田井城 5-11
       北緯34度34分54秒,東経135度32分45秒
   【祭神】田坐神
       『神社明細帳』『神社覈録』『河内國式内社目録稿本』不詳
       『大阪府史蹟名勝天然記念物』依羅宿禰及び呉服・漢織の女神
       『河内国式神私考』瑞歯別天皇

   【例祭】
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観4年(862)4月26日従五位下『三代実録』
       同年5月17日官社
       明治5年(1872)村社
       明治41年3月23日村社柴籬神社に移転合併
       大正14(1925)旧地に復活


   【関係氏族】
   【鎮座地】明治41年3月23日村社柴籬神社に移転合併
        大正14年春に田井城地区民の手により復社した

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・太鼓庫

   【境内社】

平地のごく小社。社叢は目立つ。
境内北側にあつた宮池は半分を埋立て、児童遊園となり、境内には楠樹三本と大きなイチョウの樹一本があり遠くから望見できる。社前に眞宗大谷派陽雲寺があり、江戸期の神宮寺でなかつたかと思われるが詳らかでない。
明治41年3月23日村社柴籬神社に移転合併したが、大正14年春に田井城地区民の手により復社したという。



田坐神社由来

大阪府史跡名勝天然記念物
松原村大字田井城字東口に在り周囲に土塀を廻らし、境内200余坪
延喜式(913年編修)内の神社にしてその祭神は、依羅宿根(よさみのすくね)及び呉服漢織(くれはあやは)の女神、並びに豊宇気毘売神を祭るという。貞観4年(862)4月従五位下を授けられ官社に列し給いし旧社にして末社八座を存じ今八幡と称す。雄略天皇(4世紀後半)呉服漢織呉の国より来たりて住吉浦に泊す。勅して丹比の田坐の地に迎う、即ち磯歯津路(いしつじ)を経て田里の地に来り、桑を植え、蚕を飼い、絹糸を作る。依羅宿根之を管す。云々。
大阪府神社史に依る
右の記述に明らかな如く、当社の由来は遠く4世紀に遡り、その由緒は洵に深いものがある。更に日本書紀によれば、仁徳天皇この地に行幸せられ綾織を見給い、その折りの殿舎仮宮のいわれにより田坐と称し、以後代々ここに綾織を織らしめ給うとある。以上の史実に照らすとき、当田坐の地こそ正に我が国における、養蚕、製糸発祥の地であると言える。
奈良時代の歌集万葉集にも在り次の二首に詠まれている。
鶴がねの聞こゆる田井にいおりして
 吾が旅なりと妹に告げこそ
春霞たなびく田井にいおりして
 秋田刈るまで 思はしむらく

社頭石碑



田坐神社

由坐神社は延喜式内の神社で、三代実録によると、清和天皇の貞観4年(862)4月26日に無位より従五位下を授けられ、同年5月17日に官社に列した古社である。古くから村人に八幡神を祀るといわれている。明治5年(1872)に田井城村の荘社となった。和名抄によれば河内国丹比郡田邑(多無良)にあたり、田の中に存る神、田に坐す神から社名が生れたという。
またこの地は、中世に石清水八幡領の田井荘となり、戦乱時には各地に環壕集落や砦ができ、田井城とよばれるようになった。
河内ふるさとのみち

社頭掲示板



田坐神社

市民の文化・スポーツのメインゾーンとなっている文化会館・中央公園・図書館・体育館・プールなどは田井城につくられています。
 古代にさかのぼっても、田井城は律令制の土地区画である条里制遺構がいまでも各所に残っていることで有名です。歩いていると見過ごしますが、地形図などで確かめると、農地の畔や道路区画、あるいはため池の1辺が約650mのほぼ正方形をなすものが見られます。これは、条里制の1里の1辺が約648mであることとほぼ一致しています。
 条里制が整然と存在していたということは、奈良時代には田井城に計画的な集落と農地が土地割りされていたことを想定させます。
 この集落の中心に鎮座している神社が、延喜式内社の田坐神社です。
 『延喜式』が編集された平安時代初期、田坐神社は、三宅の酒屋神社や天美地区の氏神である阿麻美許曽神社と同じく、官社として、国家によって統制されていました。現社地は、古い街並が残る田井城5丁目に当たり、境内に西接して浄土真宗の陽雲寺が建っています。
 同社の祭神についてははっきりしません。伝えるところによれば、八幡大神や依羅宿禰、あるいは呉織・漢織の織女を祀ると言われています。
 江戸時代後半、各社を調査した伴信友はその著『渡会氏神名帳考証』の中で、その祭神を稲霊豊宇気姫ではないかと記しています。続けて、信友は天武10年(681)4月に「連」の姓を賜った田井直吉麻呂がいることから、その田井氏の奉斎する神社ではないかとも推測しています。
 田坐は、いまでは「タザ」とよんでいますが、古記にあるように「タヰ」とよむのが正しいと考えられます。田井城の東北約6kmのところに、八尾市田井中があります。奈良時代の郷名を記した『倭名抄』に、河内国志紀郡田井郷があることから、両地の間に「タヰ」名を介して関連があったかもしれません。
 田井城付近は、平安時代後期に荘園化して田井荘とよばれ、京都の石清水八幡宮領となりました。田井氏や田井荘の名が、今日の田井城の地名の由来となったと考えることができるでしょう。
 田坐神については、『日本三代実録』の貞観4年(862)4月条に「旡位田坐神に従五位下を授く」とあり、つづいて同年5月条に「田坐神を官社に列す」と記されています。
 同社は明治41年(1908)3月、上田7丁目の柴籬神社に合祀されましたが(今も本殿西側に「式内田坐神社」の石標と祠が遺存)、昭和60年(1985)4月に遷座祭が行われ、再び旧社地に祀られています。
 平成9年(1997)9月、本殿新築にともない境内も整備され、田井城の氏神として崇敬されています。

松原市HP

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田坐神社

田坐は假字也、和名鈔、(郷名部)志紀郡田井、〇祭神詳ならず○丹北郡田井ノ城村に在す、今八幡と称す、(河内志、同名所図会)、
類社
伊勢國奄芸郡、美濃國賀茂郡多為神社、(各一座)
神位 官社
三代實録、貞観4年4月26日甲子、授河内國无位田坐神從五位下、同年5月17日甲申、詔以河内國從五位下田坐神、列於宜社、

神社覈録



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